和坂構
兵庫県明石市和坂

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  第二神明道路「玉津IC」で降りてから国道175号線を南へ走ります。 JR山陽本線の手前200mを西へ入ると「坂上寺」があります。

南北朝時代には足利尊氏と南朝方が戦い、嘉吉の乱では赤松軍と幕府追討軍との合戦が行われたのが、昔から旅の難所とも言われた和坂構(かにがさか)なのです。

 
  車の渋滞情報で毎日のように「和坂(わさか)渋滞」と言っているよ。 でもこの字は「かにがさか」と読むんだよ、なかなか読めないよね。 

昔、この坂で蟹(かに)が旅人を襲っていました。 諸国を回っていた弘法大師が蟹を封じ込めたので、ここを蟹和坂村と称しました。

その蟹の字を略して、和坂だけで「かにがさか」と呼ぶようになったそうです。
 

 
嘉吉元年(1441)、「将軍・足利義教は赤松満祐から播磨と美作の守護を取り上げ、お気に入りの赤松満政や貞村に与える」という噂が流れ、その後、満祐は侍所長官の地位も降り、ますます義教との不仲は深まりました。

その上、満祐の弟・義雅が大和に出陣し功績をあげたにもかかわらず、その所領は没収され、赤松貞村と細川持賢に与えられてしまったのです。

その頃、関東の結城氏朝が足利持氏の遺子を奉じて、下総国の結城城で挙兵したのを幕府軍は鎮圧し、京都では戦勝祝賀を六月14日赤松満祐邸で行うことに決ったのです。(結城合戦)

足利義教は三条実雅、細川持之、畠山持常、大内持世、赤松貞村らを伴って満祐邸に入りました。 能舞台が演じられている時、武士数十人が乱入し、満祐の弟・則繁が義教を押さえ、安積時治が首を落としたのです。

赤松満祐と一族は、義教の首を持って西国へ走り、姫路の坂本城へ入りました。 幕府は阿波守護・細川持常を総大将に赤松貞村、満政、有馬持家らの赤松庶子家も加わり、山陽道から播磨へと追討軍を進め、但馬からは山名持豊が播磨へ攻め入りました。

細川軍は神戸の人丸塚で陣を構え、赤松軍は教康を大将に明石の和坂で陣を張りました。 一時は赤松軍が追討軍を須磨の敦盛塚あたりまで追い返したのですが、山名軍が生野で満祐の弟・龍門寺真操と赤松義雅を破り、播磨へと攻め寄せてきた為、赤松軍は和坂から撤退をするのです。

そして、坂本城をあきらめ、城山城に籠もった赤松軍は追討軍に囲まれ、ついに一族自害をするのです。

『参考文献を参照』

 

  
本堂
  「本堂」

この和坂の地は、あの日光東照宮の「眠り猫」で有名な江戸時代の名工・左甚五郎が生まれたところです。

作品まではわからないけど、名前は知っているよ。 すごい人がいたんだよね。
 
不許葷酒入門内の石標
  「不許葷酒入門内の石標」

雄略天皇の五世紀頃、この辺りに文石小麿(あやしのこまろ)という賊が住み旅人を脅かしていました。

推古天皇の六世紀頃には、異国の賊が数万と押し寄せて、朝廷は敗走したところでもあります。

今でもこの辺りの坂は車で渋滞、「和坂」の読み方も難しいけど、昔も今もこの坂は難所だったんだよね。
 

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