唐櫃城
兵庫県神戸市北区有野町唐櫃

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第二神明「伊川谷IC」から北神戸線へ、「有馬口」を降りてから51号線を西へ、15号線へ入る手前で「有馬口駅」の東側の道へと入ります。

歩いて専念寺を目指すと、その背後の山には唐櫃城(からと)がありました。

2005年1月の終わり、2月の節分は季節の分かれと云われてる。 有馬街道の入り口は、人・車・電車さえ分かれても必ず戻る道標なのです。

 
唐櫃城
 

赤松(有馬)持彦が城主と云われています。

ここは有馬口、東へ行けば有馬温泉、北へは有野を抜けて三田へと続く分かれ道にあるよ。

  

 


赤松則祐の子には義則、時則、満則、祐秀、義祐がいます。

「義則」は、嘉吉の乱を起こした満祐や、赤松家再興を果たした置塩城主・政則と続きます。

「満則」は大河内家と呼ばれ、夢前町の天神山城主となり、満則・満政・満直と続きます。

「義祐」は有馬家と呼ばれて、有馬郡に居を構え義祐・持家・元家・則秀・澄則・村則と続いていくのですが・・。


嘉吉元年(1441)、義則の子・満祐が足利義教の首を取り、播磨の城山城に籠もった時、幕府の追っ手軍の中には大河内家・満政と有馬家・持家が加わっていたのです。

文安元年(1441)、満政は恩賞として播磨の東三郡(明石郡・美嚢郡・賀東郡)が与えられるのですが、その領地も山名氏の支配下になりました。

三田市の赤松館に身を置いた満政は、城山城から脱出に成功した則直城主・則尚(義則の孫)と共に、山名氏に対して兵を挙げるのですが、敗れて有馬持家を頼りました。

しかし細川勝元軍が有馬郡へ攻め込むと、有馬家は敗退、持家は満政を討つことで身を守りました。 のち持家・元家父子は足利義政の側近として勢力を保ちました。

いつ唐櫃城主の有馬持彦が登場するのか、実は有馬家領主には、持家と元家の間に持彦・直祐がいたのです。

つまり最初の則祐の子でみると、「祐秀」の子が持彦で「義祐」と同じく有馬家だったのです。

『参考文献を参照』

 

  
専念寺
 

「専念寺」

お寺までは行かなかったけど、登れば専念寺。

境内には赤松円心や則祐の供養碑があるらしい、とは知らずに左の山道に入ったよ。

これでまた来ることになるんだよね。

   
石積み
 

お城の石かな、よく分からないけど、うれしいな。

細い道を向こうまで行くと小さな川、そこには土が崩れてた。

中から同じような石が転がっていたけど、なんやろうね。 そこも嬉しいよ。

 

  
水の手
  「水の手」

道のすぐ横に石が円形になった所がある、「井戸」と思ったけど違うかな。

ここは下の写真の中腹あたり、井戸というより山からの湧き水だね。

急斜面を降りると、削った広い所、屋敷跡なのかな。
  
分かれの道標
  「分かれの道標」

今回は難しい、考えても分からない。 今まで見ては楽しみ、見つけては喜んだ。

ここは有馬の分かれ道、分からず気楽に歩いたら、別れた道標は、また来る道の標かな。
 

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