瓦林城
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兵庫県西宮市日野町
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阪急電車「西宮北口駅」で降ります。 線路沿いを東へ1kmぐらいで日野神社、この地が瓦林城(かわらばやし)と云われています。
「つづくシリーズ」は摂津から京都までの道のり、でもまだ西宮だよ。 一年はかかりそうだね。
「つづくシリーズ」の1回目
越水城 ⇒ 瓦林城 ⇒ 富松城
⇒ 水堂陣屋 ⇒ 七松城
まで歩いたよ
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西宮市桜谷町の越水城から東へ3kmぐらい、まだ歩けるね。
ここから南西500mの極楽寺には瓦林政頼のお墓がある、そこがお城跡との説もあるよ。
当時は自分の住んでる所を明らかにしないのが普通だったんだよ、きっと。
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建武三年(1336)、赤松円心は摂津に兵を置き、足利尊氏が九州から東上してくるのを待ちました。
尊氏が摂津まで迫った時、新田義貞は和田岬、楠木正成は湊川に陣を構えて防御していたのですが、湊川の合戦で正成は敗死、義貞は西宮まで退いて反撃するも敗れて京都に退いています。
この合戦では赤松方の部将・貴志義氏が瓦林城を守り、香下寺城(三田市)や丹生寺城(神戸市北区)からの南朝方の攻撃を防いでいます。
文和四年(1355)、貴志義氏は南朝方として楠正行軍に属したのですが討死、代わって瓦林氏が瓦林城一帯に陣を構えています。 瓦林氏の活躍として、
観応元年(1350)、尊氏と弟・直義の仲が悪くなる頃、尊氏が摂津を確保するために瓦林平次郎を従えて香下寺城を攻めています。
文和二年(1353)、尊氏の子・義詮が瓦林平九郎に近江・伊勢への出陣を命じ、また延文四年(1359)には義詮が河内天野山の後村上天皇の行在所を攻める時、瓦林一族の瓦林基忠が細川清氏に属して赤坂・東条の諸城を攻めています。
応仁元年(1467)から始まった「応仁の乱」の時、瓦林政頼は鷹尾城を築きました。 のち細川一族の細川高国に味方し、鷹尾城から越水城へ移っています。
永正十六年(1519)、阿波から兵庫に上陸した細川澄元が、越水城の瓦林政頼を攻めた時、細川高国が瓦林城に陣を置いて援護したとも伝わっています。
元亀元年(1570)、織田信長と本願寺との戦いの頃、信長に付いた瓦林三河守は援護がないまま落城、一族は滅亡しました。 それを祀ったのが日野神社なのです。
『参考文献を参照』
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「日野神社」
西宮球場から阪急の線路を北側に越えてやっと着いた。
もうここしかないといった場所だからすぐに分かるよ。 右端に鳥居、さっそく中へと入った。 |
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「何かな」
鳥居から50mぐらい中へ歩く、息を呑むことすら忘れるような雰囲気を与えられた空間に変わる。
社の周囲には平らなとこ、土塁のような場所があるけど、何かな。
一説には武庫川氾濫の跡と云われているけど。 |
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「何やろ」
神社の石台かな、何やろね。
周囲は住宅地と線路、でも静かすぎるこの空気は城跡そのものだよ。
いつも真面目だが、もっと真面目な顔になってしまった。
そして次のお城へと歩くのです。
つづく |
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