鶏籠山城
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兵庫県たつの市龍野町上霞城
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龍野バイパス「福田ランプ」から179号線を北上します。 揖保川を越えた辺りが龍野市街です。
龍野には山麓に築かれた龍野城(霞城)と、その背後の標高210メートルの山頂に築かれた鶏籠山城(けいろうざん)があります。 この中世の鶏籠山城は朝霧城や龍野古城とも呼ばれています。
鶏籠山城へは、山麓の龍野城西裏が登山口になっています。
龍野は赤とんぼの童謡や城下町の歴史ある町です。 しかしここ鶏籠山城は中世下克上の時代がどことなく見えかくれしている、そんな城跡です。
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「本丸隅に残る石垣」
登山口からは、「両見坂」と呼ばれる歩道が20分程続きます。
その周辺には「侍屋敷跡」「侍屋敷の蹲(つくばい)」「石面の矢穴」など沢山の遺構が見られます。 |
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原始林に包まれた「鶏籠山」は、鶏の伏せ籠に似たような山だったので、その名がつけられたといわれ、山頂には、今もなお風雪に耐えてきた城の石垣などが残っています。
山頂の城は、明応八年(1499)に赤松一族によって築かれ、赤松村秀が最初の城主となり、この地方を治めていました。 赤松氏は政秀、広貞、広英と城主になり、四代七十八年続きます。
天正五年(1577)、天下統一をめざしていた信長は、播磨、中国地方を平定するため、家臣の秀吉に播磨攻めを命じます。
秀吉軍は、二万の大軍で揖保川まで攻め寄り、この様子を眼下に見た赤松広英は、赤松の滅亡を憂い、城を明け渡し秀吉の軍門にくだります。(のちに、赤松広英は、但馬の国和田山、竹田城主となる)
龍野城は、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政など秀吉の最も信頼する重臣たちが代々城主となります。
その後、1598年頃に山頂の城を取り壊して、ふもとの現在の地に城が築かれたといわれています。
(徳川時代となり、ふもとの城は、元和三年(1617)龍野藩主として本多政朝が入城し、藩主が入れ替わりながら、藩主・脇坂安斐、明治四年(1871)廃藩置県まで続きます)
龍野古城には、本丸跡、二の丸跡、竪掘り跡、八幡宮跡、削平地跡などがあり、弓矢に利用されていた矢竹が群生しています。
『現地案内を参照』
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「両見坂石灯籠」
夜道は恐いので、灯りをつけていたのでしょうか。 昼間でも一人で登るのは恐い。
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「石垣(侍屋敷)畑跡」
登山口からすぐに、沢山の石が散乱しています。
屋敷があったのかな、まさか侍が畑していたとは思えないし。
この辺りまでは緩やかな舗装された道です。 でも急に「的場山」との分かれ道から急な道になります。 |
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「古城階段」
所々で道が細くなっているので、注意が必要です。
写真は本丸への 大きな木が倒れていました。 「山陽自然歩道」らしく城跡全体が、自然な姿で残っています。
もうそこが本丸です。 |
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「本丸跡」
ほっと一息。
帰る途中で、なにやらゴソゴソしていました。 イノシシだったと思います。 一目散に走って行きました。
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