城山城
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兵庫県たつの市新宮町下野田
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龍野バイパス、福田ランプから179号線を北上します。 揖保川沿いの龍野市を越えて新宮町に入り、船渡交差点を西へ曲がると、すぐ西側に見える標高458m亀山の山頂に城山城(きのやま)があります。
この城跡への登山口は市野保の「搦手道」、馬立の「大手道」もしくは、「兵糧道」があり、今回は「搦手道」から登りました。
2003年3月、城山城は南北朝時代に赤松満祐が起こした「嘉吉の乱」で、赤松一族が落ち行く最後の舞台となった城跡なのです。
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古代山城の「門の礎石」
本丸から西へ50mほど下がったところにありました。
古代山城は天智天皇の頃、663年の「白村江の戦い」で敗れた際に防御用に九州北部から瀬戸内海にかけて築かれた城のことです。
兵庫県には存在しないとされていましが、この門石は山口県の古代山城で使用されている神籠石(こうごいし)と同じものなのです。
(まだ古代山城であると確定したわけではありませんが) |
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赤松円心則村は、足利尊氏に味方した功績により、室町幕府の四職の一人に任ぜられるとともに播磨国守護となって、白旗城に本拠を構えました。 則村が没した後、則村の三男・則祐が継ぎ、播磨領国支配の強化と経済発展の一環として、ここに「城山城」を築いたのです。
則祐の跡、義則・満祐と継ぎ、満祐の時には赤松氏の全盛を迎え、播磨・美作・備前の守護になっています。 しかし、幕府権力を取り戻そうとしていた六代将軍足利義教に自領の一部を侵され、満祐はこれを恨んで義教を自邸に招いて謀殺した事件を起しました。
満祐は坂本城(姫路市)で、足利直冬(尊氏の子、直義の養子)の孫を迎えて、足利義尊と名乗らせ、次の将軍として認めさせようとしましたが誰も応ずる者もなく、幕府の追討を受けることになりました。 これが世にいう「嘉吉の乱」であり、その最後の舞台になったのがこの城山城での「城山合戦」なのです。
この時、城山城は満祐の弟・義雅が守っていましたが、満祐の坂本城は籠城戦には不向きであったので、山険しく谷深い城山城に籠城して幕府軍を迎えることにしました。
義雅を但馬・山名氏の播磨侵入に備えさせ、満祐自身は城山城に入りました。 満祐に従う者は、利神城・別所氏、得平氏、柏原氏、志方城・櫛橋氏、萩原氏、釜内氏、御着城・小寺氏、中島氏、伊豆氏、端山氏、端谷城・衣笠氏、依藤氏など赤松一族八十余人、都合三千五百余騎であったといわています。
幕府軍の攻撃が開始され、大手方面からは細川・武田の三万余騎、搦手方面からは此隅山城・山名持豊(宗全)教清父子の二万余騎が攻め込みました。 細川・山名の両勢は城山城を完全包囲して東西の谷筋から攻め登り、ついに勝敗も見えてきました。
満祐は赤松家の再興を子・教康に託し伊勢の国に落として、自身は城に火を掛け、弟の義雅・祐尚・祐之ほか一族二十五人とともに切腹して果てたのです。 嘉吉元年九月十日のことでした。
『参考文献を参照』
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「石垣」
門の礎石と同じ場所です。
石垣や土を削った跡は点在するのですが、城山城全体としては、まだ完全には調査されていないようです。 |
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「亀池」
山頂付近にある池です。まさかと思ったけど、水があったのです。
本丸方向の山頂を目指すつもりが、この池から右手の道を進み、龍野方向からの登山道に出てしまいました。
標識も無い山合いの狭い道を下っていると、迷ったのかなと思い、非常食用のチョコレートを食べてから、気を取り直して元の道を再び登山です。
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池まで戻って左の道を進むと、「亀岩」「蛙岩」がありほっとしました。
左手には「祇園嶽の出城」で、「本丸」へはここから右手方向1km先になります。
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登山口から2.3kmの「亀山の山頂」やっと到着です。
さらに南(右)には「ニの丸」「赤松屋敷跡」があります。
山麓の揖保川を挟んで見える姫路方面の山々です。 この日は3月にもかかわらず小雪が舞う中でのひと時です。
いつもは城跡に出かける時は、デジカメ・水筒・チョコ・名刺を持っていきます。 今回の教訓として、地図と筆記用具は必需品で、山麓の案内図はメモするように心掛けたいと思います。
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登山口にある「市野保古墳群」
今から約1400〜1600年前の古墳時代後期に造られた横穴式石室をもつ円墳で、現在89基の古墳が発見されています。
市野保の裏山には全長30mの前方後円墳があり、古墳時代前期のもので、首長の墓と考えられています。
写真のような古墳があたり一面にあるのですよ。びっくりを越えてます。
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