此隅山城
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兵庫県豊岡市出石町宮内
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播但連絡道路「和田山IC」から国道312号線・9号線をさらに北上、下小田交差点から県道2号線を東へ走ると出石の城下町に入り、そこから北へ「出石神社」を目指して約2kmほど行くと、神社の北側に此隅山城(このすみやま)があります。
ここ此隅山城は、「六分一殿」とよばれた山名一族全盛期の但馬国における本拠でした。
2003年4月、中世・下克上・戦国乱世と、歴史の物語に逆らうことなく落ち行く運命は、今でも脈打つ鼓動が聞こえる、そんな城跡なのです。
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此隅山は子盗山とも言われ、落城後に築城した出石町の「有子山城」の名前は納得がいきますね。
標高140m、一見して形が整い、かわいらしく見えますが、日本全国の六分の一の領土を支配していた中枢だったのですよ。
東西1300m、南北750mの大要塞で、今でこそ麓が造成されていますが、当時は山全体に建物がいっぱいあったのですよ。 |
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山名氏は、室町幕府において侍所の長官に任ぜられる最も有力な大名の一人で、明徳の乱、応仁の乱の中心勢力として関与しました。
但馬は南北朝の初期以来山名氏の根拠地であり、南北朝期後半戦国時代まで一貫して山名氏が守護の地位にあり、この山名氏の本国但馬における本城が此隅山城でした。
標高140mの此隅山山頂に長さ50m、幅10mの主郭を設け、これを中心に四方にのびる尾根上に削平による平坦地(くるわ)を多数設け、石垣などを用いない、中世の山城の様相をよく残しています。
文中年間(1372-74)ころ山名師義により築城されたといわれ、山麓には宗鏡寺、願成寺、大手門、御屋敷などの地名が残り、かって城下町が存在していたことを伝えている。 また出石神社や総持寺にも山名に関する書状などが残っています。
しかし永禄十二年(1569)と天正八年(1580)に天下統一をねらう秀吉らの織田軍が但馬に進攻し、此隅山城は廃城となるのです。
『現地案内を参照』
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「本丸跡」
山名家の代々の家臣「山名四天王」と呼ばれる、垣屋氏・田結庄氏・八木氏・太田垣氏も主君山名氏から離反し、各自が相い争う様になってきました。
田結庄氏は、この城を攻撃したこともあるそうです。下克上、まったく大変な時代です。 |
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「反対から本丸を見た写真」
派手な石垣はないのですが、次ぎから次ぎへと平らになった曲輪跡が現れます。
北には袴狭川(はかざ)、南は入佐川(いりさ)で山自体が自然に独立した位置にあります。
まだ案内はありませんが、ここで道に迷うことは無いので安心です。
でも登山口には動物が畑に降りてこないように囲いをして扉も開かない様にロープで結んでおきます。 その瞬間に動物に追いかけられた時に、どこから逃げようと思った事だけでした。
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「本丸後ろの曲輪郡」
斜面は段々畑のごとく曲輪が続きます。
市民有志の方々の活動のおかげで、平成八年に「国史跡」になり、現在は整備中です。
登山口にあった「此隅山登山口」の案内板は、昨日まで無かったと、定年後から野菜作を始めたばかりの方が教えてくれました。 |
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「此隅山城主郭跡の碑」
歴史の時間に習った「応仁の乱・下克上」の物語に登場してくる人達がうろうろしていたのでしょうね。
今になって、「応仁の乱」や「六分一殿」のことが少しわかってきました。 |
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「但馬一の宮出石神社」
天日槍命(あめのひぼこのみこと)を祀っています。天日槍命は古事記や日本書記には新羅国王の王子で、日本に渡米され、八種の神宝をお持ちになりました。
この神社はおよそ千三百年前には、この地で祭祀が行われているとても古い歴史があります。
北隅には禁足地があって、入れば祟りがあるといわれている場所もあるから注意してくださいね。
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