久下城
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兵庫県丹波市山南町玉巻、金屋
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国道175号線を北上、 氷上郡山南町に入り「井原交差点」を東の県道77号線、「久下小北」から県道86号線を北へ進むとすぐJR谷川駅の西側には踏み切りがあります。
線路の西側には標高241m八幡山の山頂に久下城(くげ)があります。
2004年3月も後半、もう春の光です。 別名は玉巻城、光秀の丹波攻めで落ちた城跡は、東から差し込む光に考え込んでしまう城跡なのです。
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約350年間にわたり久下氏がこの地一帯に勢力を振るってきました。
南の播磨側から押し寄せる丹羽長秀軍の攻撃で落城した説もあるけど、丹波攻めは東からの明智光秀でいいんだよね。 |
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治承四年(1180)、源頼朝は平氏打倒の兵を伊豆国で挙げたのですが、箱根の石橋山合戦で大庭景親・河村義国らによって敗れました。
翌年、頼朝が再び旗揚げをした時、大庭景親に属していた久下直光・重光父子は、頼朝のもとに一番に馳せ参じました。 元暦元年(1184)、屋島で回復した平氏は神戸の須磨一の谷で陣を構え、対する源義経は丹波から三草山城の平氏を討ち破り、神戸へと向かいました。
承久三年(1221)、久下氏は恩賞として丹波粟作郷の地頭職に任じられ重光の孫・直高がこの地に移り住みました。
元弘三年(1333)、後醍醐天皇の令旨を受けた足利尊氏は、鎌倉幕府の六波羅軍を攻めるために、丹波の篠村(京都亀山市)に入り、諸国の武士に参陣を呼びかけました。
この時も一番に参じたのが、久下時重なのです。
鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇の建武の新政が始まるのですが、足利尊氏の離反によってわずか二年で崩壊しました。 観応二年(1351)、足利尊氏も弟・直義と分裂し、直義が京都を攻めた時に尊氏と子・義詮は京を捨て西の丹波へと逃げました。
久下時重はこの足利父子の危機を救い、久下氏も貞重・頼直・幸興と続いて丹波での勢力を拡大させていくのです。
室町幕府の勢力が衰えはじめると、丹波では黒井城主・赤井氏(萩野氏)が力を持ち、久下氏はその傘下に入りました。
天正七年(1577)、明智光秀の丹波攻略に際し、久下重治は反織田勢力の荻野氏に従い、波多野宗貞とともに久下城で籠城しました。
光秀はまず波多野氏の八上城を落とし、氷上郡に入ってから金山城を築城、孤立無援になった黒井城は落城、そして久下城も落ちたのです。
『参考文献を参照』
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「長慶院」
東の山麓には久下重光初め一族代々の城主や将士の菩提所があります。
長慶院から200mほど北へ歩くと、石垣の風景になります。
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この石垣はお城のものではなくて、「猪垣」というものらしいよ。
でも、山から降りてくる動物を防ぐなら、万里の長城のような防御する形になっているはずだけど何か少し違うよ、不思議。 |
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「神社」
石垣の所から入るとお墓、そしてこの神社。
登山道は有るようで無いような感じ、でもけっこう見通しはいいので、適当にすべりながらも直道で登れるよ。
福知山線の電車の音、町内の放送の声が聞こえていたので安心だよ。
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「二の丸」
山頂に着きました、ここから平らな尾根が続きます。
ここではさすがに静かです。 木の間に差し込む光だけが、方向を教えてくれてるよ。 |
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「本丸」
二の丸から南へ50mぐらい。
この曲輪の西側には一番上の写真の堀切があります。
ここから北西への三の丸方向へ行きます。 |
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三の丸の石積みです。
わずかだけど差し込む光は、昔をも見させてくれてるよ。 |
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「すごい枝」
枝は光の方にだけ伸びてるよ。
周囲の景色は見えないし、どちらが南か分からないけど、木は光で方向がわかるんだよね。 ほんとすごいよね。 |
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「これは何」
石で丸く囲ってるよ、何かな。 井戸がこんなに大きいとフタが大変だよ。
多分、猪が中に入ったらクルクル回って、最後に目が回って、真っ直ぐに走れなくする装置なんやろね。
実際のとこ何やろ、考え込んでしまったよ。 |
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「磁石」
この辺りの石は磁鉄鉱を含んでいて、磁石がくるうらしい。
これをしたくて磁石を持ってきた、確かに針は南を向いているよ。
そっと辺りを見渡してみた、光を求める木々達が不思議そうに考え込んでしまったよ。
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