鞍背城
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兵庫県たつの市新宮町千本
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龍野バイパス、福田ランプから179号線を北上します。 揖保川沿いで城山城の威圧さにびっくりしながら、新宮町から西北へ走り、JR姫新線の「千本駅」を過ぎると、北側にある千本の集落へと入ります。
この北側の標高288mの山頂には鞍背城(くらのせ)があります。
2005年5月、ここは播磨と出雲を結ぶ宿場街道。 岡山、鳥取、島根のお城、出雲の国へはいつ着けるかな。
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この山の形は馬の鞍に似てるから鞍背とついたのかな。
赤松満祐の嘉吉の乱で一族が籠もった城山城から、国道179号線を北西に行くと千本、本陣の案内があるよ。
「出雲街道」と云われ、このまま北西に行くと島根県の出雲まで行けるんだね。
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村上天皇の第七皇子である具平親王の長子・師房が「源氏」の姓を賜り、師房から九代の孫・師季が播磨佐用庄に配流され、その子・季房がこの地にとどまり、名前も山田季則と改めました。
季則の孫・則景から続くのが播磨守護の赤松円心、一方則景の兄弟・将則がのち宍粟市山崎町の長水城を拠点とした宇野氏につながり、そこから江見氏、佐用氏、小寺氏と分かれていくのです。
宇野将則は為頼、景頼、頼定と続き、その子には宗清・頼季・国頼がいました。 そして建武年間(1334-38)、赤松円心が播磨守護代・宇野頼季に築かせたのが鞍背城です。
この宇野頼季は護良親王の熊野落ちの際、武功を立てた人物・小寺頼季と同人物であり、小寺頼季がのち姫路城主となり、御着城へ移る小寺氏の祖なのです。
嘉吉元年(1441)、赤松満祐が起こした「嘉吉の乱」で、同じ新宮町にある城山城は落城、そして鞍背城も落ちるのです。
『参考文献を参照』
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「千本宿 本陣」
国道の案内から街中に入ると、当時の宿跡がある。
そこには「因幡街道」ともある、江戸時代の参勤交代で大名や役人が宿泊していたんだ。
なんと日本全国土を測量した伊能忠敬も泊まっていたよ、次の日に泊まる宿を地図で調べていたのかな。 |
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「依藤塚(よりふじ)」
少し西へ歩くと「粟栖廃寺の鬼瓦」の案内、その奥です。
赤松一族が城山城で籠城した時、城山城から白旗城へ連絡に行った小野市小田城主・依藤惟次は、帰りの千本村で城山城の落城を知りました。
惟次は「最早これまで」と地蔵堂に入り、腹十文字にかき切り自害するのです。 |
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「須貴神社」
依藤塚から少し西、お寺の東側を入ると神社、この右側から登る。
山頂のテレビ塔まで車で行ける道、でも歩いた方がいいみたいよ。 |
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山の北側まで回り込むと、車道と尾根との高さが同じになる。
ここから尾根を南へ折り返すんだ。
緩やかな尾根づたいを最高所へ、思ったより普通に歩けるよ。 |
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途中2箇所の尾根のこぶ、そこは削平地、北側は急峻な崖になっている。
あとどのくらい、100mぐらい、見えない時間は心の不安が見えてくる。 |
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最後の登り、石積みが所々に現れる。
右に行ったり、左を見たり、迷いそう、この位置を覚えて上に登る。 |
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「たぶん主郭」
着きました、山頂。
背丈以上の草木、青い空が見ています。
大きさは東西22m、南北17mの三角形らしい、何も分からない。
反対側にも石垣があるらしい、ここまで来れたから嬉しい。 |
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帰りは気持に余裕が出るね、南側の風景だよ。
街道が通る、西へは岡山県美作市、津山市から北へは鳥取の倉吉市、そして日本海の因幡へと続く。
きっと津山から181号線に乗り換えて、鳥取の米子市、島根県松江市を通ると、出雲街道なんだね。
街道シリーズ、もう一つ夢を加えてみようかな。 でも何回往来すれば神話の地に着くのかな。 |
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