播州・姫路 地侍の子。 通称四郎右衛門、黒田官兵衛の若年期から側近として仕えました。
有岡城(伊丹城)陥落のとき地下牢から官兵衛を救出し、関ヶ原の戦いの折には、九州席巻に直属軍団の筆頭として活躍しています。
官兵衛は、慶長9年3月20日、機内山城・伏見城下の黒田家伏見屋敷において五十九年の生涯を閉じました。
今わの際に藩主・長政と善助を呼び、両名に対して確かと申し付けます。
「朱塗合子形冑は善助に与える。 今より後は、この冑を吾等と心得よ。 善助は以後、長政を我が子と思って指導せよ。 長政は、この冑を持つ善助の諫めに背くことは相ならん。」
官兵衛の没後も、九州筑前・福岡藩52万3千石の国老として長政の治世を助けました。
「黒田騒動」の一方である栗山大善はその子息です。
『現地案内を参照』
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