赤松円心の四男・氏範がこの有馬郡を領有するのですが、南朝方であった氏範は播磨の清水寺で自刃、代わって兄の則祐の子・義祐が有馬郡の守護となり有馬氏を名乗りました。
のち有馬家は持家・元家・則秀・澄則・村則・村秀・国秀が嫡流で、澄則から分かれた庶流家は則景・重則・則頼と続きます。
この車瀬城は嫡流家の有馬村秀が築城した説、伊丹有岡城主・荒木村重の一族である荒木平太夫が築いた説があります。
しかし嫡流側の国秀が荒木村重の支配下になると、不義の疑いから自刃、有馬氏嫡流は絶え、代わって荒木平太夫が入りました。
一方、分家の有馬重則は三木市の三津田城に移り、そこで生まれたのが有馬法印則頼です。 則頼は三好長慶の三木城攻めの際、萩原城(神戸市北区)を落とし城主になりました。
天正五年(1577)、秀吉の三木城攻めが始まると、秀吉に付いた則頼は淡河城を攻め落とし、萩原城から淡河城へ移りました。
慶長六年(1601)、則頼は関ヶ原の戦いで家康側に付き、三木から三田に移ると、再び有馬郡の領主に返り咲くのです。
慶長七年(1602)、丹波福知山城主・有馬豊氏(則頼の子)が継ぎ、のち九州久留米に移ると有馬氏による三田の支配は終わります。
寛永三年(1626)、出羽国上山城(山形県)から松平重直が入り、また重直が豊前の龍王に移ると、志摩の鳥羽城主・九鬼久隆が入ります。 そして車瀬城を廃して、三田陣屋を構えました。
『参考文献を参照』
|