前田主膳屋敷
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兵庫県篠山市八上
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篠山市の街からさらに3kmほど東へ行くと、南側には美しい山の八上城、その麓の登山口には前田主膳屋敷(まえだしゅぜん)があります。
2005年8月、丹波の前田玄以の話。 石田三成の話は初めて出てきたのかな、滋賀県や関ケ原も近くなってきたよ。
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八上城の麓、登山口を入ると屋敷跡があります。
2年前に登った時、すっかり八上城の屋敷と思っていたよ。
ここで前田玄以が出てくる、関ケ原では石田三成方であったけど、家康に味方して丹波の所領は安堵されるんだよ。 |
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天正三年(1575)、明智光秀の丹波攻めが始まり、翌年には光秀に味方していた八上城主・波多野氏が叛旗を翻しました。
天正六年(1578)、八上城は囲まれ食糧攻めにて、籠城半年で落城するのです。 そして波多野秀治は安土に送られ張り付けにされました。
その後、八上城には明智光忠が入るのですが、天正十年(1582)の「本能寺の変」で明智氏は滅亡すると、丹波亀山は羽柴秀勝が領有し、この八上には並河飛騨守が城代となりました。
天正十三年(1585)、秀勝が世を去ると、丹波には豊臣政権の五奉行の一人である前田玄以が丹波亀山城主となり、玄以の次男・茂勝が跡を継いで、この八上に屋敷を構えたのです。
しかし慶長十三年、茂勝の乱行のために所領を没収され、隠岐へ流されました。
その後、家康は松平康重を常陸国笠間城から移して、八上城の西方に築いたのが篠山城です。
『参考文献を参照』
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「高城市松稲荷神社」
文政の頃、江戸では相撲が行われ、篠山から高城市松が力士八名をつれ、全員が勝ち続けました。
篠山城主・青山忠祐は大変喜んで、褒美を出そうとしたのですが、姿が見当らないのです。
後で分かったのは、皆の名前は領内のお稲荷さんの名前でした。
ということは、力士の名前の神社が8社あるのかな。 |
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