妻鹿城
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兵庫県飾磨区妻鹿
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山陽電鉄「妻鹿駅」から、市川の東側の土手を北へ300mほど行くと、川に沿って丸く島のように見える甲山があります。
この標高102m、山頂には妻鹿城(めが)があります。
2003年5月、妻鹿城は功山城(こうやま)や国府山城(こうやま)ともいわれ、黒田官兵衛の小説によく登場するのが、この「妻鹿」の城跡なのです。
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登山口がある「荒神社」の境内にあります。
小説の「妻鹿城」は果たしてどこなのか、気になりつつ普段通る道沿いには、それらしき城跡は見あたらないのです。
「黒田職隆廟所」が「甲山」にあるとのことなので、「廟所」を見るために来てから、そこで初めて「妻鹿城」だとわかりました。
いつものことです。 |
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功山城は、市川左岸の甲山(標高102m)にあり、別称を妻鹿城・国府山城・甲山城・袴垂城ともいわれています。
初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗です。 長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。
その後、姫路城内で生まれた黒田官兵衛孝高の父職隆は、天正元年(1573)に姫路城から功山城に移り居城としました。
また天正八年(1580)、三木城主別所長治を滅ぼした秀吉は三木城を居城としました、これに対し官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、功山城に移ります。
官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩五六万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。
天正十三年(1585)職隆が没した後は、廃城となったようです。 なお職隆公の廟所は妻鹿町内にあり、町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。
『現地案内を参照』
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「主郭跡」
ここから市川をはさんで遠くに姫路城が見えます。
霧が出ていてもいいように、きれいな絵がありました。
今回は自転車で来ました。 もし時間があるなら「姫路城」「御着城」「妻鹿城」「英賀城」をサイクリングするのも楽しいかと思います。
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「盤座(いわくら)」
主郭から更に北の高いところには、異様に大きな岩が突き出ています。
何をしていた所なのでしょう。 座って見張りをするのだとは思いますが、突きささりそうです。 |
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「経塚跡からの市川河口」
瀬戸の海に広がる眺めに時を忘れ、ここから東にある石垣を見るのを忘れてしまいました。 いつものことなんです。 |
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「黒田職隆廟所」
妻鹿駅から東へ歩いてすぐですが、少し奥まった場所にあります。
職隆の妻は、近衛関白家の歌の師範をつとめた明石氏の娘であったため、少年時代の官兵衛は和歌や書を好んだそうです。
官兵衛が志方城主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘、光姫と結婚して、翌年家督を譲られた時に、父・職隆は妻鹿城に隠居しました。
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「御旅山(おたびやま)」
妻鹿城から南へ行くと、段々畑になったところがあります。
松原八幡神社の秋の例大祭、「灘のけんか祭り」は有名で、この御旅山にて神輿を激しくぶつけ合いを行います。
御旅山には官兵衛の母の先祖・妻鹿孫三郎の手形があるとのことです。 また訪れてみたいと思います。 |
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