三開城
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兵庫県豊岡市大篠岡・木内・駄坂・香住
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播但連絡道「和田山IC」で降りて国道312号線を北上し、豊岡市の円山大橋を東へ渡ります。 そのまま県道703号線を1.5kmほど東へ走ると六方川、そして広がる田園の中央には標高202m三開山の山頂に三開城(みひらき)があります。
2004年6月、300城への始まりは但馬のお城。 でも南北朝時代の但馬は、分からない事があり過ぎて足が止まってしまうのです。
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「三開山」
手前には六方田圃と呼ばれる田園が広がっています。 この田圃に水があふれた季節に戦いがあったのだよね。
但馬の南北朝時代、まだまだ分からない事がいっぱい。 ひとつづつ楽しみたいと思います。 |
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元弘三年(1333)、朝廷は南朝と北朝に分かれ、但馬でも北朝方の今川頼貞が守護になると、南朝方は新田義貞の子・義宗を三開山城に迎え、妙見山城(養父市)や進美寺山城(城崎郡)を拠点として対抗します。
建武四年(1337)、足利直義は小俣来全に「但馬凶徒の誅伐」を命じ、この戦いで三開山城や妙見山城は落城し、新田義宗は越前の杣山城(福井県南条郡)へ敗走するのです。
康永三年(1344)、三開山城は再び南朝軍の手に落ちたので、足利尊氏方だった山名時氏が但馬に攻め入り、三開山城を落とし自ら但馬守護を名乗り始めました。 この山名時氏は山名宗全から三代前の人物です。
北朝内で足利尊氏と弟・直義が対立するようになると、直義は南朝方に付き、山名時氏も尊氏方の高師直と対立していた立場から直義の子・直冬側に付いて南朝方になるのです。
そこで尊氏側の今川頼貞は山名時氏を討つ為に但馬各地を攻撃、その主戦場が三開山城なのです。
『参考文献を参照』
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「登山道」
今回は東側の神美小学校の裏手にある公民館で登り口を教えていただきました。
でも登り口は四方にあるのかな、北の大篠岡、西の木内、南の駄坂・香住からかな。
「ふれあいのこみち」ここから山頂まで900mで30分です。 |
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「尾根の道」
途中には赤土の二重堀切、道でポツリポツリと石仏に出会います。
山名宗全の三代前か、すごい人達がいたんだね。 同じ場所を歩いていたのかな。 ちょっとドキドキしてきたよ。 |
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主郭手前の堀切だよ。
掘りの中を進んでみた、そしてしゃがんで見た。 両側に不自然な石がある。
前方は歩いてきた道、後ろは掘切が続いているよ。 しゃがんだままだと見られると変だから、道へ戻ります。
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主郭の横を少し回ってみました。 ここで石積みに出会えるなんて思ってなかったよ。
昭和25年、六方川の改修工事中、集落の川筋で武具を着た人骨が一体掘り出されました。 武具の中から砂金もみつかったそうです。 |
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「石の鳥居」
主郭への最後は鳥居をくぐります。 足を止め、後ろを振り返ってみた、やっぱり鳥居はあるよね。 |
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「主郭」
向こうの端まで行きたい、でも何故だろう。 足が止まってしまった。
向こう側から降りると「千畳敷」と呼ばれるとても広い削平地と石垣があるらしい。
「千畳敷」は祭祀跡とも伝わり、周辺には古墳群もあるよ。
でも、ここで足は完全に止まった、何故。 再び鳥居をくぐって早足で降りた。 |
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帰る途中のお地蔵さんがある所から北側へ続く道がありました。
この道を進めば「千畳敷」に行けるのだろうか、輝く木の下だけ土の色が黒くなってる。 影ではない、昔何が行われていたのだろう。
また足が止まった。 山を降りて、公民館の方に聞かれた「やけに早いね、千畳敷は行ったの」と。 返す言葉も止まった。
水生城で2回、ここでも1回、思いっきりこけたのが足にきているのだろうか。 |
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