湊川陣所
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兵庫県神戸市兵庫区会下山町
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JR山陽本線「兵庫駅」で降りて北へ歩きます。 少し登り坂を歩いて1km、ここ会下山公園が湊川陣所です。
2005年1月も終わり、ここは神戸の兵庫区、源平の時代から南北朝の時代。 少しこの街を歩いてみたくなりました。
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「大楠公湊川陣の遺蹟」
足利尊氏が九州から京都を目指して東へ上る、迎え討つ楠木正成はこの公園で陣を構えたのです。(湊川合戦) |
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元弘元年(1331)、後醍醐天皇は二度目の鎌倉幕府打倒の計画を立てました。 これも重臣・吉田定房の密告により失敗、天皇は京都を脱出し奈良県の笠置山に籠もりました。
この時、楠木正成は甲取山に城を築いて後醍醐天皇を迎えようとしたのですが、鎌倉方から大仏貞直・金沢貞冬・足利尊氏らが攻め寄せ、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐に流されるのです。
元弘三年(1333)、天皇は隠岐を脱出し、名和長年の手引きにより鳥取県の船上山に入ると、一緒に脱出した千種忠顕は山陰から丹波へ、護良親王の呼びかけに播磨・苔縄城で挙兵した赤松円心は神戸から京都へ、幕府方の足利尊氏は京都亀山で倒幕方となり、京都六波羅を攻め、ついに北条仲時の自害により鎌倉幕府は滅亡するのです。
しかし後醍醐天皇による建武の新政は武士たちの反発を生み、尊氏は鎌倉に入り天皇と対立するのです。
建武三年(1336)、箱根竹ノ下の合戦で新田義貞を破った尊氏は京都に入るのですが、陸奥の北畠顕家や楠木正成の軍勢に京を追われ、九州へ落ちました。
九州で勢力を回復した足利軍は瀬戸内海を尊氏が、山陽道からは弟・直義が東上、それを迎え打つ天皇側の総大将・新田義貞は神戸の和田岬に陣を構えました。
そして楠木正成が陣を構えたのがこの湊川なのです。
尊氏が海から新田軍を攻めると新田軍は東へ退き、正成は湊川で孤立、陸路から攻め上がった義直と正面から挑むのです。
『参考文献を参照』
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「会下山公園(えげやま)」
もう少し東の湊川公園には楠木正成が馬に乗った像があるよ、来た時は忘れないようにね。
もうお昼の時間、誰もいないベンチに座る、鳩が集まってきます。 でもおにぎりは一つしかないからね。 |
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「平業盛の塚」
会下山公園の東の麓にある善光寺の境内、ここには「平業盛の碑」もあります。
業盛は清盛の弟・教盛の末子で、17歳の若武者の時に源義経の軍勢が押し寄せました。
泥屋四郎・五郎の兄弟と戦い、この地で討つ取られるのです。 |
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「柳原蛭子神社」
兵庫駅の東南の「柳原のえびすさん」、1月9・10日は会いたい人に会えないぐらいの人でいっぱいだよ。
ここは西国街道が通る所、この辺りに兵庫の町に出入りする「柳原惣門」がありました。
天正八年(1580)、池田恒興・輝政父子が兵庫城を築城する時に置かれた門といわれています。 |
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「後醍醐天皇の碑」
柳原のえびすさんの少し東、福巌寺です。
後醍醐天皇が隠岐から帰られる時に立ち寄られ、楠木正成や赤松円心らが出迎えた所です。
また、応仁の乱では一条政房が隠れていたところを赤松方によって討つ取られた場所でもあります。
相変わらず兵庫区の辺りは方向がわからないよ、北だと思っているのは東だからね。 |
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「平清盛公墓所」
少し南の能福寺の境内です、このお寺には高さが11mの「兵庫の大仏さん」がある、初めて見たけど大きいよ。
初代住職・円実法眼は清盛が京都で世を去った後、遺言によって遺骨をこの地に納めたとあります。
また慶応四年(1868)、備前藩兵が西国街道を通過中の行列を横切ったフランス水兵を槍で刺傷させました。
神戸が外国兵に占拠されたのが「神戸事件」、32歳の滝善三郎が全責任を負って切腹、その碑が横にあります。 |
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「琵琶塚」
「平家物語」にみえる琵琶の名人・平経正(清盛の甥、敦盛の兄)は、能の世界では「経政」と言われ、一の谷の合戦で安田義定に討たれるのです。
高砂市の鹿島神社の東に「経政神社」があるよ、加東郡社町の三草山合戦で義経に敗れた平氏は高砂にも来たのかな。 |
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「清盛塚」
治承四年(1180)、平清盛は神戸に都を移したのが「福原京」、でも半年で京都へ都を戻したんだ。
500年後の延宝八年(1680)、北条貞時が清盛塚を建立しました。
さすがに高い8m、見上げて写真、大きすぎて全体が入らない、入れようとすると道路に落ちる。 |
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「楠の神木」
湊川神社です、500年の年輪の楠は昭和20年の神戸大空襲で焼けました。
のち力強く蘇り、今では再生・再起や合格そして復興の象徴として祀られているのです。 |
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「楠木正成公戦没の地」
延元元年(1336)、正成が一族十六騎、郎党六十余人と共に自刃された所です。
大阪のお城はあまり行っていないけど、楠木正成、もっと知りたくなりました。
千早城や赤坂城、ロープウェイは無理だから雪どけ季節に登ってみようかな。 |
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