満田城
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兵庫県三木市志染町三津田
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山陽自動車道、「三木東IC」を降りて県道83線を南へ走り、すぐ「御坂交差点」を東へ、またすぐ「御坂東交差点」を南へ曲がると、1kmほどで「三津田下バス停留所」があります。 その東側には標高152m(比高60m)の満田城(みつた)へ入る道があります。
播磨風土記が語る美嚢の郡(みなぎのこおり)、この川の水流れ(みなが)は美しいと語った志染の里も、中世の時代は戦いの場だったのです。
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この石は屋敷跡だと思うよ。
全てを見ることはできなかったけど、沢山の遺構がありそうだよ。 |
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この城は三津田と戸田の境にそびえ山田川、淡河川に囲まれた天然の関所でした。
本丸・二の丸・三の丸が絶壁の台地にひろがり、天然の岩山を利用して有馬重則、則頼の出城として二十数年勢威をふるいます。
東の明石出の道をへだてた高台には五輪塔が祀っています。
矢の向い「幡山」「城の越」の地名があることを思えば鎌倉時代から平氏九代、淡河氏四代がこの要塞の地を出城としたと思われます。
兵達は下三津田全域に住んでいたらしい。「遊女田」「小巻」という名も残っています。
『現地案内を参照』
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「城跡への道」
満願寺の東側には、供養の為に石塔が祀られています。 ここから右側奥へと入っていきます。 |
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「遺構」
「城跡への道」からすぐの場所です。
丁度工事をしていたのかな、土に埋まっていた石と瓦が出ているよ。
城跡の遺構は普通は土に埋もれているよ、掘ってみたら意外な遺構が出てくるんだね。 いきなりびっくりしたよ。 |
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「谷道」
最初の案内には、400mで城跡と書かれていました。 でも行けども、それらしいものが無いのです。
ついに反対側に通り抜けて、池の横を通って、車が通る道まで行ってしまいました。
本日は終了と思い、引き返しました。 ふと見上げると「満田城はここを上がる」と道標があったのです。 |
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「並んだ石」
竹林の中を進みます。 写真は竹の無い場所で撮っているよ。
ほんとうは竹に挟まれて、体をくねくねしないと進めないぐらい沢山あるよ。
竹と竹がぶつかる音と、頭をぶつける音が共鳴してるよ。 |
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「平らな石」
すごい、石の隙間を竹が突き抜けているよ。 この平らな石は何に使ったのかな。 |
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「主郭」
最初の道標を素直に行くと、山頂に出ます。 あまり前に行くとそのまま真下に落ちてしまうよ。 気をつけてね。 |
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「五輪塔」
ここは、最初の入り口がある道路を東へ行ったところです。
山頂の「満田城跡の説明」には、有馬重則、則頼を祀っているとありました。
実はお城の入り口が分からなくて、探している時に出会いました。 あとで説明を見て納得です。 |
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「御坂サイホン橋」
イギリスのパーマー氏が設計して、明治24年に完成しました。
サイホンとは眼鏡橋のことで、当時は画期的な大事業だったそうです。
この川が志染川、沢山昔の話が残っているんだよ。 |
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「御坂神社(みさか)」
播磨風土記の「美嚢の郡(みなぎのこおり)」の話です。
履中天皇がお弁当を食べていると、貝のシジミが這い上がってきました。 ここから志染(しじみ)の地名となりました。
この神社は伊和大神が国を固められてから天から下ったところだそうです。 天から下る神は風土記の中では珍しいそうです。 |
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「志染の石室(しじみのせきしつ)」
於奚(おけ)と袁奚(をけ)という二人の皇子がいました。 於奚はのちの23代・顕宗天皇、於奚は24代・仁賢天皇です。
履中天皇の皇子・市辺忍歯王はライバルの大長谷皇子に殺害されました。 二人の皇子が同じ目に合わないように、ここに身を隠していたのです。
この二人が根日女に求婚したのですが、そのラストシーンは加西市の玉丘古墳へとつながるのです。(善坊山城を見てね) |
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