水生城
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兵庫県豊岡市日高町上石、 豊岡市上佐野
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播但連絡道、「和田山IC」で降り、国道312号線から9号線へ、養父市八鹿町から再び円山川沿いの312号線を北へ走り、JR山陰本線「国府駅」の所で西へ入ります。
駅から北側にある集落の背後には、標高120m〜190mの尾根上に長さ1kmに渡って水生城(みずのお)があります。
2004年5月の最後は但馬のお城。 竹田城、有子山城、此隅山城へは行ったけど、南北朝時代の但馬には分からない事があり過ぎるのです。
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「山頂付近の曲輪」
但馬と言えば、山名氏と思ってたけど、今まで知らなかった人物が沢山登場しそうです。
夏へ向かう季節の但馬、まだまだ知らないお城は楽しみだよね。 |
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「水生合戦」は三回あるそうです。
南北朝時代、南朝方である山名時氏の家臣・長左衛門尉道金が築きました。
観応二年(1351)、北朝方・今川頼貞と南朝方・上野頼兼が対立し、南朝方は今川頼貞の磯部城を攻撃、対して、今川頼貞に属する伊達真信は美方郡の温泉城(ゆの)、養父市の宿南城、城崎郡の八代城などを攻めています。
そして、北朝方・伊達真信は国分寺城を拠点として、水生城を落としたのです。
永禄年間(1558-69)の初め、播磨の赤松則貞が但馬の朝来郡の竹田城を落とし、さらに北へと攻め入りました。
この時、城崎郡の楽々前城主(ささのくま)・垣屋光成は赤松氏と和睦、一緒に豊岡市の田結庄氏(たいのしょう)が守る鶴城を攻めました。
永禄二年(1559)、 田結庄右馬助は水生城に軍を集め、垣屋氏と合戦を始めたのですが、山名俊豊の仲裁で和睦、水生城は山名氏の家臣・西村丹後守が預かりました。
天正五年(1577)、羽柴秀吉の第一次但馬攻めで、弟・秀長を竹田城に入れました。
天正八年(1580)、 第二次但馬攻めが開始、城崎郡の轟城主(とどろき)垣屋豊続は西村丹後守の水生城に但馬勢を集め、対抗したのですが、秀吉軍の藤堂高虎により落城するのです。
『参考文献を参照』
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「長楽寺の薬師堂」
山麓に車を置いて、石の階段を上がると長楽寺があります。
すごくきれいなお寺で、境内には「天然記念物のチリツバキ」の木があります。
三・四月には、紅色の花に白が混じり、20枚ぐらいの花は一枚づつ別れて落ちていきます。 |
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「登り口」
住職さんに登り口を尋ねると、 「今の時期は木や竹を伐採しているから、登るのは難しいよ」と教えていただきました。
でも、がんばって登ることにしました。 |
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「屋敷跡かな」
少し入ると、もう道が分からない。
3段ぐらいと思ったけど、ここは「字殿屋敷」と言われる居館かな、それとも昔、お寺の「十二坊舎」があった跡なのかな。
たぶん道はあったと思うけど、ここから真っ直ぐ尾根を目指します。 |
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草木でよく分からないけど、左がへこんでて、右が盛り上がっているよ。 どこまでつながっているかは分からない。 |
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土塁の辺り、よく見ると石を並べている。 ほとんど埋もれているから、どこまで続いているかは分からないね。 |
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「竹と斜面」
確かに登るのは難しい、上に行きたいけど、横へ行ったり、戻ったり。
この竹の中へ、左の斜面から落ちてしまったよ。 戦いの時は、竹の葉に油を塗って敵がすべる様にしていたんだよね。
おしり2度打ち、ズボンもどろどろ。 |
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「尾根」
もうすぐ尾根、数段の曲輪跡がありました。
今どこに居るのか分からない、方角さえも分からなくなってきたよ。 |
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一番高い所です。
本丸と思うけど、分からないよ。 でも、これ以上は上は無いからね。 |
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「水生山」
尾根には4つの城塞があるよ。 でも、そのうちのどこに行ったのかな。 お寺で腰掛けて、お茶とお菓子をいただきました。 山の様子を尋ねられた時、何故か言葉に出てこないんだよ。
泥だらけのズボンだから、きっと登ったと思う。 確かに山頂まで行ったと思う。
いくら山を眺めても分からないので、美味しいお茶をいただいて帰りました。 |
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