籾井城
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兵庫県篠山市福住
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篠山城がある市内より更に東へ走り、デカンショ街道を通ると篠山市の東方には「福住小前交差点」があります。
この交差点の北側に禅昌寺、その背後には標高394m(比高150m)白尾山に籾井城(もみい)があります。
2005年3月、細工所城の次は籾井城。 「丹波篠山五十三次」はいくつ見ても嬉しい、全部見てみたいよね。
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本丸には大正13年に東宮御成婚記念の「籾城公園の碑」が立っています。
黒井城主・赤井悪右衛門が「赤鬼」なら、ここの籾井教業は「青鬼」と呼ばれていたんだよ。 |
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天正年間(1573-92)、京都府船井郡の八田城主・籾井越中守教業(のりなり)が築いたと伝わっています。
教業は八上城主・波多野秀治に属し、秀治の弟・秀尚が亀山城にいた時に八田城に籠もって援護をしました。
天正5年(1577)、明智軍の藤堂高虎と明谷川付近での激戦で敗れ自害、そして籾井城も落城するのです。
教業は明智光秀を撃退し続けたので、「丹波の青鬼」と恐れられていました。
籾井氏は清和源氏佐々木氏の子孫で、代々足利氏に仕えていました。
永正年間(1502-21)、籾井河内守照綱が城を築き、嫡男・右近太夫綱重が継いで、東に安口城を築いて守りを固めていました。
籾井綱利の頃、光秀の丹波攻めではよく対抗するのですが、籾井城落城で綱利は自害、父・綱重は綱利の子・太郎左衛門孝高をつれて山に身を潜め、のち京都に上り福泉(ふくずみ)と称して代々藤堂家に仕えたと伝わっています。
と、2つが伝わっているのですが、光秀に落とされたのは同じでも、一方は藤堂家と戦い、もう一方は藤堂家に仕えています。 考え込んでしまいますね。
『参考文献を参照』
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白尾山(はくび)、右には国道372号線、篠山市を通って京都亀岡市まで続いてる、南の天引峠を越えれば大阪空港の近くへも行くよ。
よく言われる交通の要衝だね。
右の麓には禅昌寺と案内があるから近くに寄るね。
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という間に麓です。
ここも丹波篠山五十三次の道標、まだ6つぐらいしか見てないけど、シリーズにしようかな。 |
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金刀比羅宮、案内から少し歩くと「大砲山 あずまや」、そこには大砲があるよ。
太平洋戦争の時に対空監視所があったからかな。
そして金刀比羅宮へと着く、この辺りが出城らしい。 |
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鳥居からかなり歩くと、やがてお城の雰囲気に変わる。
小さな堀切を越えると南の郭から最高所まで180mの郭が続く、もうすぐ主郭だよ。
その周りは腰郭になっている、すごく大きいのでびっくり。 |
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この上は碑がある主郭、南側に2箇所の虎口があるよ。
ところで「虎口」は「こぐち」と読んでたけど、日本語大辞典には「ここう」とある、ひょっとして今まで間違っていたのかな。
その意味は「トラの口」とある。
あまり知らない事を口に出すと「虎穴」に陥るとある、ますます分からないね。 |
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主郭から更に北へ行くと大きな堀切、ここで大木や石を転がして敵30あまりを討ったとある。
実は前から堀切も不思議と思っている、大抵はジャンプすれば渡れそうな大きさだし。
油の葉っぱを敷くと、かってに向こうへすべって落ちていくのだろうか。 |
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「半左兵衛の供養塔」
悪天候続きで不作の時、半左兵衛は上流から溝を掘りました。 もし火事になった時にも消火の役に立つと考えたからです。
でも、かってに掘ったことを篠山藩が知り、打ち首になったのです。 それから17年後に火災が起こり、村人は供養塔を造りました。
丹波篠山、次の「五十三次」を探しにいくね。 |
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