基山城
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兵庫県たつの市御津町黒崎
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国道250号線(通称:浜国)の御津町「新舞子口交差点」を南へと曲がり、海水浴場のある浜まで行きます。 この東側の標高63mの山には基山城(もとやま)があります。
砂浜が見える山にも赤松一族の跡、砂浜へ誘う波は静かでも、もうすぐ暑き季節を誘う城跡なのです。
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新舞子へは何回も来ているけど、海ばかり見てたよ。
ここの砂浜のすぐ後ろには、こんな城跡があったんだね。 |
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元弘元年(1331)、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕計画を企てたものの、吉田定房の密告により失敗、鎌倉方の六波羅に追われて笠置山に籠もりました。 しかし翌年、天皇は捕らえられ隠岐に流されています。
後醍醐天皇の皇子・護良親王に仕えていた赤松円心の子・則祐は護良親王の発した令旨を持ち帰り、円心は苔縄城に一族を集めて挙兵をしました。
その頃、円心の弟・光則(光村)が萩原孫三郎光則と称して、光則の子・敦則がここ基山城主となりました。 萩原氏は光則、敦則、敦之、基平、基定と続き、この基定は赤松則祐の子・義則に仕えています。 赤松義則は三代・足利義満と四代・義持に仕えて、中央での勢力を拡大していくのです。
しかし、赤松義則の子・満祐が足利義教を殺害した「嘉吉の乱」で、萩原氏も満祐の弟・赤松義雅に従って城山城に籠ったのですが、赤松一族ともに自刃しました。
萩原基定の嫡子・基知は須賀次郎左衛門、次男・知経は鯰尾大次郎と名乗り、ともに赤松政則に従い赤松氏再興で功績をあげ、のち置塩城時代の赤松氏に仕えています。
『参考文献を参照』
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「黄色い花」
新舞子の浜の手前、黄色い花が一面に広がります。
何という名前の花かな、野菜の花かな。 黄色に囲まれながら小道を歩いてみたよ。
以前なら「暑い寒い」や「花見と紅葉」ぐらいだったけど、城跡探索を始めてから、季節を変える風や色を感じるようになったよ。 |
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「基山古墳」
海岸手前の駐車場から海を見ながら登ってきましたが、ここまで車で来れるみたい。
でも急ぐこともないし、浜辺からゆっくり登った方が気持ちいいよ。
それに、南から登って北から降りるコースがいいみたい、同じ場所に戻ってくるよ。
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「山頂」
古墳の後ろには少し高くなっている場所があります。
確かに平らに削られているね、本丸跡かな。 |
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「北側へ」
山頂から北側の小道を挟んで、少し入ったところです。
ここには一番上の写真の石垣や、竹林の中には沢山の石積みと曲輪跡らしき場所があります。 |
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「何かな」
ほとんど地面に埋もれて見にくいけど、石で丸く囲まれた跡があります。
何の跡かな、これが分かる様になればいいのだけどね。 また教えてね。 |
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「綾部山梅林」
今日は2月29日、4年に一度の日だね。 基山城から西側の梅林に来ました。
春はお花見と言いながら桜の開花ばかりを気にしてるけど、梅の花は落ち着いて見れるよね。
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「基山城」
向こう側の山が基山城だよ。 城跡は一人、ここは出店もあるし駅前通り状態だよ。
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「砂浜」
基山城の砂浜、梅が終われば潮干狩り、夏には海水浴で沢山の人が来るよ。
季節の風は人の心を誘うけど、砂浜の風はまだ静かな波だけを誘っているね。
基山城、今では暑き季節の風を待ってる城跡なのかな。
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