那胡山構居
兵庫県姫路市名古山町

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姫路城から1kmほど西の名古山、その地には那胡山構居(なごやま)があります。

「播磨風土記」の頃、姫路の街は海だった。 父子の神を乗せた船をつけたのが因達神山、そして波を起こしたのが名古山なんだよ。

 
  ここは名古山霊苑、実際の構居跡はここから300m南東にあったらしい。

名古山をゆっくり見たのは初めて、でも那胡山構主の碑を探すために登ったり降りたり、三周ぐらいしたよ。
 

 


室町時代の足利家は、京都の将軍家と鎌倉公方に分かれていました。

六代将軍を決める時、くじにより京都の義教が将軍の座に就きました。 それを機に鎌倉公方の足利持氏との仲はますます悪くなり、ついに義教は持氏を討つのです。(永享の乱)

永享十二年(1440)、関東では結城城主・結城氏朝が足利持氏の遺児・春王丸と安王丸を擁立して茂木城(栃木県)で兵を挙げました。

そこで京都の義教は結城氏追討の命令を出し、播磨では赤松満祐が各地で豪族を動員するのですが、姫路の男山構主・山野新藤次成明やこの那胡山構主・那胡七十郎頼三ら十四名は命令に従わず、閉戸追放となるのです。

『参考文献を参照』

 

  
仏舎利塔
  「仏舎利塔(ぶっしゃりとう)」

インドの故ネール首相から贈られた仏舎利(釈尊の分骨)を納めた金色の厨子が安置されています。

また釈迦三尊を正面にして、十大弟子の立像と釈迦一代記をあらわした壁画がつらなり、下層部には聖徳太子を中心に六人の高層の座像と日光月光菩薩の立像を安置しています。
 
辻井廃寺の礎石
  「辻井廃寺の礎石」

名古山から西北200m、七世紀後半の白鳳時代にあった辻井廃寺跡から出土した礎石です。

すぐ横には「名古山弥生住居跡」もある、1800年前の竪穴式住居だよ。

昭和35年に発見され、なかでも銅鐸の鋳型は日本で最初に発見されたらしい。
 

  
八丈岩山
 

「八丈岩山」

名古山から北を見る、因達神山(いだてのかみやま)と伝わる八丈岩山があるよ。

播磨風土記、船に乗った大汝命(おおなむぢのみこと)、火明命(ほあかりのみこと)の父子が乗り付けた山だね。

山麓の音楽ホールはギリシャ神話のミューズの女神に捧げられた神山からパルナソス・ホールと名付けられたんだね。

 

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