南北朝時代の観応三年(1352)、足利尊氏と弟・直義の争いは直義が毒殺されて幕を閉じました。
文和三年(1354)、尊氏の子・義詮は南朝方に対抗する為に京都の東寺に陣を構えると、南朝方の楠木正成の次男・正儀は尼崎から、北畠顕房は大和から、山名時氏・師氏父子は鳥取の伯耆から京都への進撃を開始しました。
一時は敗れた山名軍は、足利直義の子・直冬(尊氏の養子)を擁して再び伯耆から京都に進むと、河内から楠木正儀も京都山崎の男山(石清水八幡宮)を占領して京をうかがいました。
これに対して、尊氏は後光厳天皇を奉じて近江の武佐寺へ逃れると、義詮は佐々木道誉・赤松則祐軍を率いて山崎の西、神内(大阪府高槻市)に陣を構えました。
この神内合戦で尊氏方は直冬を破り、その時赤松軍として参加していた曽根藤四郎義宗が中筋構居主です。
天正六年(1578)、秀吉による三木城攻めの時、末裔の曽根藤市郎は別所氏の幕下として一族とも三木城に立て籠もるのですが、三木城開城の前に自害するのです。
『参考文献を参照』
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