鳴尾山城
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兵庫県西脇市板波町
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社町から175号線を北上し、中国自動車道を越えて4kmほどで「板波橋東詰交差点」を西へ、加古川を渡ると西側には標高176m(比高110m)の山頂に、鳴尾山城(なきやま)があります。
地球の東経135度・北緯35度が交わる「日本のへそ」、2004年2月の150城目、西脇市にも赤松一族のお城があるんだよ。
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社会の本では、明石が日本の標準時間と教えているね。
改めて地図を見ると、東経と緯度の線があって周囲に数字が書いてるよ。 135と35が交わっている場所を見てね。 |
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鳴尾山城は南北に連なる鳴尾山の北端の標高176m、比高110mの山頂に築かれています。
城跡は山頂の主郭(南北20m、東西18m)を中心に土塁付の幅広い通路兼帯曲輪がとり巻き、南の尾根続きは堀切を設けて防御を図っています。
鳴尾山城の特徴は、曲輪のほぼ全周を石垣積みに改修している点で、その時期は戦国時代末期と考えられています。 このころの山城は合戦のときにこもるための城で普段は見張り番がいるだけでした。 そのため建物も粗末な小屋程度しかなかったようです。
鳴尾山城は野村町の野村構居とセットとなる山城であったと推定され、城主は上原氏と考えられます。 上原氏は戦国時代の混乱に乗じて這田荘重国郷の実権を握りますが、自立の困難さから自らも当時北播磨全域に覇権を広げていた在田氏の被官人となります。
鳴尾山城は戦国時代の末期に北播磨進出をねらう三木城の別所氏に落とされ、這田荘も別所氏の支配地となりますが、上原氏がその後どうなったのかわかっていません。
鳴尾山城は小規模ですが特徴的な構造をもち、市内でも保存状態のよい城跡のひとつです。
『現地案内を参照』
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「愛宕山入口」
お城の案内板から少し西へ歩いた所から登ります。
実は、西脇には叔父が住んでいました。 40年も前、加古川線のイスの無い電車の床に座ってよく来たものです。
今でこそ1時間半ぐらいで西脇に来れるけど、当時は半日がかりだよ。 |
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「西脇の南側」
南東に見えてる山は、加東郡の三草山方面かな。
叔父は留守だったので、庭にムシロを敷いて、干してる柿を食べてたよ。
その家には何故か「くじ引きの駄菓子セット」があった。 くじ引いてから食べたけど、よく考えたら好きな物から食べればいいのにね。 |
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「堀切」
山頂に着きました、本丸の南側には堀切があります。
頂上に着くと、すぐ「鳴尾山城跡」の石碑が目に入るので、ここは見落とすことがあるからね。
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「石垣」
堀切の右側、本丸周囲の石垣です。
夕方に熱が出て、叔父のバタバタ(バイク)に落ちないように縄で縛られて姫路まで帰った記憶があるよ。
でも考えたら、なぜ叔父の家で寝かせてくれなかったのだろうか。
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「水場跡」
本丸から西側(反対側)に回り込む道沿いにあります。
井戸なのかな、「水場」とは何をする所かな。 また教えてね。 |
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「本丸跡」
南北20m 東西18mの広い所に社があります。
「愛宕山」だから、防火の神様「愛宕神社」だよね。 裏手の「虎口」は、青い物に気をとられて、見るのを忘れたよ。 |
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「西側の山」
帰りは「経ケ芝古墳」を見ようと西へと下りました。
結局、古墳は見逃して、テニスコートの若者に見られて、周回の道をまた東へと歩きました。 |
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「野間川」
加古川の支流です。
もう少し下流の「闘龍灘」には、白っぽい岩が川の中一面にあるよ。 この辺りの岩も白っぽくなってるね。 |
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「長明寺の源頼政」
鳴尾山城から加古川の東側の長明寺にあります。
境内には弓の達人・源頼政公の墓碑やヌエ退治の像があります。 ヌエは、頭は猿、尾は蛇、手足は虎に似ている架空の生き物です。(方向を表す動物かな)
この源頼政は1180年、平家討伐の戦いの中、宇治平等院で敗死しています。
実は、そんな叔父も若くして、30年前から長明寺に眠っているんだよ。 |
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