仁木城
|
兵庫県篠山市福住
|
|
Top お城の一覧 探索一覧 写真一覧 |
|
|
国道372号線を篠山市内より更に東へ走ります。 デカンショ街道の「小野新交差点」の東で京都方面と大阪方面に分かれます。
大阪方面の173号線を南へ700mぐらいには如来寺、その南の標高458m仁入道山には仁木城(にき)があります。
2005年3月、籾井城の次は仁木城。 ここにも「丹波篠山五十三次」はある、ここから北海道へつながるのかな。
|
|
|
|
|
見つけたよ、「丹波篠山五十三次」。
前の道は「綾部街道」、北へ走れば京都府綾部市そして舞鶴へと続く。
舞鶴から小樽へは船で30時間、何故か北海道につながってくるんだよ。 |
|
|
|
|
仁木氏は三河国額田郡仁木郷の出身で、足利氏の一族の御供衆としてその名が出てきます。
建武三年(1336)、後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏は箱根竹ノ下合戦(静岡県)で新田義貞を破り、京都に入りました。
しかし、天皇の命令で楠木正成と陸奥からの北畠顕家により京を追われ、尊氏は吉良氏・石堂氏・細川氏、そして仁木氏に守られ丹波から摂津、兵庫から九州へ敗走しました。
九州で勢力を回復した足利勢は、神戸湊川の合戦で楠木正成を破り、新田義貞を敗走させると光巌天皇を奉じて京都に入りました。
神戸での戦いで敗れた新田義貞・義顕父子は後醍醐天皇の皇子・恒良親王と尊良親王を奉じて越前の金ケ崎城に入るのですが、尊氏は高師泰・今川頼貞・小笠原貞宗・塩冶高貞や仁木頼章らの軍勢を越前に向かわせて義貞を討ち取りました。
その後、尊氏が室町幕府を開いた時の将軍補佐役として高師直が執事となり、のち仁木頼章や細川清氏らが継いでいます。 この仁木頼章が丹波国守護として高見城を本拠としました。
尊氏が世を去ると、しだいに仁木氏の勢力も衰えていますが、頼章から義尹・清尹・持尹・持長・成長と続き、この成長が仁木城を守っていたのです。
『参考文献を参照』
|
|
|
|
|
|
|
「如来寺」
永保二年(1082)に創建、のち籾井城主の祈願所になっていました。
光秀の丹波攻めの時に焼失、寛永二年(1625)に閑誉上人が再建しています。
籾井照綱の石塔があるらしい、見るのを忘れていたよ。
|
|
|
|
|
「仁入道山(にんどやま)」
お寺の横から奥に入る、永享の頃(1429)には仁木氏の居城があった。
永禄六年(1563)にも仁木長政が居たとの記録がある、のち仁木氏は四国徳島県の吉野川町に移っているよ。
話は北海道、余市郡仁木という町。 |
|
|
|
|
|
|
明治8年に吉野川市から仁木竹吉さんが360名を伴って開拓された町です。
確かではないけど、この地から北海道につながっているんだよね。
山を見上げる、どこまで続いているのか、道はあるのだろうか、光で先が見えないよ。
うまく降りられるだろうか、一瞬でもよぎってしまう。
足を止めて、ペットボトル一本飲みほして心の衝動を冷やすしかないかな。 |
|
|
|
|