二郎砦
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兵庫県神戸市北区有野町二郎
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第二神明の「伊川谷IC」から北神戸線へ、「五社IC」を降りて15号線を北へ走ります。
中国自動車道を越えて1kmほどで神戸電鉄三田線「二郎駅」方面へ、有野川を渡ると布袋寺、お寺の背後の高台には二郎砦(にろう)があります。
2005年1月、神戸は北区ここも源平ゆかりの地、またひとつ街の道標をみつけたよ。
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お寺の裏側を少し入ると土塁、これ以上は通れるほど竹の隙間がないよ。
この土塁はほんの一部、全体は山陽自動車道と中国自動車道の合流する「神戸JC」になっている。
北方には二重の堀切や郭があって、そこから蒲公英城が見えてたんだよね。
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元暦元年(1184)、神戸「一の谷合戦」そして香川県の屋島で敗れた平家、ついに源平合戦の舞台は山口県下関市「壇ノ浦の合戦」となりました。
ここで活躍するのは平清盛の弟・教盛の次男である勇将・平教経。
源義経の船に乗り込んで切りかかる、そこで義経は飛んで逃れたのが「義経の八双飛び」、教経は勝ち目ないと知るや海に飛び込み自害、同じく平知盛・二位尼時子(清盛の正室)、そして安徳天皇(高倉天皇と清盛の次女・徳子との子)も海へ身を投げたのです。
平教経の子孫は宮崎県の日向に隠れ住んでいました。
大永年間(1521-28)、子孫の宮崎弾正二郎広綱は、かつて領有していた神戸市北区の八多庄に戻り、この地を二郎と名付け、砦を築き居を構えました。
天文・弘治年間(1532-57)の頃、広綱は三木の三津田城で生まれ、三木城攻めでは慈眼寺山城で三木城を囲み、関が原の戦いの後では三田城主になった有馬法印則頼に属していたのです。
『参考文献を参照』
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「布袋寺(ほていじ)」
大永年間(1521-28)、平教経の念持仏である聖観音像を祀るため、宮崎広綱はこの地を開拓し、布袋寺を建立したと伝わっています。
お寺には平清盛の自画像と伝わる肖像画や琵琶塚碑面文字の屏風が保存されています。
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「五輪塔」
宮崎氏を祀っているのかな、お寺の左奥には「布袋さん」が祀られているよ。
ここは「有馬七福神」の一つ、調べると大池聖天(弁財天・福禄寿)、多聞寺(毘沙門)、五社有間神社(恵比寿)、布袋寺(布袋尊)、善福寺(寿老人)、湯泉神社(大黒天)。
初めて知ったよ、たいていの七福神は一つのお寺に一人が祀られ、そして七つがつながっている事を。 |
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「源平ゆかりの地」
最近、本屋で「源平と神戸ゆかりの地」という本を見ていたら、この地も載ってたよ。
源平ゆかりの地、近くに沢山あるから行きたいよね。
有馬の二郎、また一つ道標を覚えたよ。 次の街では、どんな道標に出会うかな。 |
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