上原氏は長野県の諏訪氏の一族で、鎌倉幕府の北条氏に仕えていました。
弘安三年(1280)、蒙古軍が壱岐、対馬から長門に攻めてきた時、幕府は北条時業を播磨に派遣し、上原氏もこの地に来たといわれています。
弘安六年(1283)、上原俊房がこの野村城を築きました。
後醍醐天皇の建武の頃、三代・則重は白旗城主・赤松円心に従い鎌倉幕府倒幕で軍功をあげています。
明徳二年(1391)、室町幕府三代将軍・足利義満の時、山名氏が因幡・伯耆・出雲・但馬・隠岐・丹波・丹後・美作・山城・和泉・紀伊の11カ国の守護職となり勢力を拡大していきました。
これに対抗して幕府は大内氏・畠山氏・細川氏らに山名氏清を討たせたのです。 この時、五代・上原重隆が活躍しています。
嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍・足利義教の首を取った「嘉吉の乱」で、赤松一族が城山城に籠城した時は、六代・上原秀重が満祐をいさめた人物ともいわれています。
この乱で、最初赤松一族は書写山坂本城に集結し、上原民部大輔・佐用氏・永良氏・宇野氏・富田氏・粟生氏らとともに、生野峠で山名宗全の追討軍を迎え討つために陣を構えているのですが、この上原氏とのつながりは詳しく分かっていません。
永禄二年(1558)、十一代・上原左京亮兼親は、三木城主・別所長治の叔父・別所重棟の夜襲を受け野村城は落ち、兼親は自害するのです。
『参考文献を参照』
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