小野藩陣屋
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兵庫県小野市西本町
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加古川の東岸を北上し、175号線に合流して、天神橋交差点を西に入ると神戸電鉄小野駅があります。 駅を超えて西300m程の辺りが、小野藩陣屋(おのはんじんや)になっています。
播磨平野のほぼ中央に位置する小野市は、「そろばんと金物の町」として繁栄してきました。 また歴史的な建物や遺跡が、数多く残されており、探索をする楽しさを味わえる街でもあります。
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小野小学校の門です。すぐ横には「一柳藩敷地旧陣屋跡」の石碑があります。
明治の廃藩によって、ほとんでの建物は取り壊されました。
御殿跡は小学校、重臣の邸宅跡は小野高校になっています。
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小野藩主・一柳氏(ひとやなぎ)は、伊予国の河野氏から出ています。 戦国時代に河野宣高は、伊予から美濃に移り、土岐氏に仕えていました。 その時代に一柳氏を名のるようになりました。
宣高の孫・直末は羽柴秀吉に従い、三木城攻めにも加わっています。 その後も秀吉と共に戦い続けますが、北条氏攻撃の時に討死しました。 弟・直盛が跡をついで、様々な功績が認められ、先祖代々の伊予国に加え、この播州加東郡が与えられました。
直盛の後は、所領が三人の息子に分けられ、二男の直家がこの加東郡を相続し、敷地(小野市敷地町)に代官所を置いて支配しました。 そして直家は河上に築城をも準備していましたが、参勤交代の途中で病にかかり、後継ぎとして但馬出石藩から婿養子をもらおうとしましたが、急な養子は認められず、その上伊予国も没収され、この加東郡のみ存続を許されました。
二代藩主・直次は、この敷地は防衛面で適切でないと考え、二キロ東南の門前村に陣屋を移しました。 ここは丘陵で、東に三つの池がある自然の要害で、古くから「小野の原」といわれ、それがそのまま小野市の名前となりました。
五代・末栄の時、藩財政が悪化し、自ら節約実行をして財政を立て直したり、九代・末延は、国学者の大国隆正を招いて藩校帰正館を開いて教育にも努めました。
陣屋は二回焼けましたが、明治維新で廃藩になるまで、一柳氏十一代に渡って小野藩を維持してきました。
『参考文献を参照』
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「磐代神社」。小学校のすぐ前にあります。
陣屋の構築にともない建立されたものです。
昭和40年の台風で倒壊し、現在は41年に再建されたものです。
羽柴秀吉の家臣として活躍した、直末が伊豆の山中城合戦で戦死しました。 その武功にあやかるべく軍神として、出陣のときには参拝したと伝えられています。
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好古館は、小野市の歴史、芸術、風土に関する資料を収蔵、展示しています。
小野の旧跡の位置がよくわかる、小野市ミニモデルがあり、 城跡探索には大変役に立ちました。
そしてとても嬉しのは、いつも親切にしていただいてる事です。
(おの恋タオルを売っているところを教えていただいたしね) |
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