平田山陣
天正六年(1578)、三木城主・別所長治は織田信長に叛旗を翻し籠城を決意しました。 三木城攻めを命じられた秀吉は、支城から落とし、三木城を孤立無援にして「干殺し」といわれる兵糧攻めの作戦を行いました。 でも実は食料が密かに運ばれていた「兵糧道」があったのです。
別所氏と同じく信長に対抗した伊丹有岡城主・荒木村重は、東の丹生山(神戸市北区山田町)から淡河城を経由する道、明石魚住から間道を通って三木に入る道、そして魚住から西を迂回して北から三木に入る道などです。
毛利方は小早川隆景と吉川元春が瀬戸内水軍の兵船に兵糧を積んで明石の魚住から陸揚げしました。 これに対して秀吉は三木城に通じる道三十ヶ所あまりに付城を置いて運搬を阻止していました。
そこで毛利方は生石中務を将として、西から加古川をさかのぼり三木市の北にある小野市を通り、北側からこの大村を通って三木城へ運び入れる計画を立てたのです。
この時、秀吉方の豪将・谷大膳は、大村の平田山に陣を構え三木城への糧道遮断の任についていました。 しかし毛利軍と別所軍はこの平田へ目指して一挙に攻撃をかけたのです。
天正七年(1577)、静けさ深まる秋の夜、大膳は群がる別所勢を大薙刀で切り立てたのですが、ついに力尽きて討死をしました。 しかし秀吉側の援軍が駆けつけ、この戦いは別所氏・毛利氏の惨敗となるのです。(大村合戦)
大村城
大村氏は三木城主・別所則治(教治)の子・貞治が大村に城を構え大村氏を名乗りました。
天正七年(1579)、貞治の孫・大村九郎左衛門治吉の時に三木合戦がおこり、治吉は討死するのです。 のち大村治吉の子は身分を隠して但馬の養父市広谷へ落ち延びたのが大村道益を初代とする広谷大村氏の始まりです。
天正八年(1580)、三木城を落とした秀吉は第二次但馬攻めを行い、八木城主・八木豊信を追い払い城には秀吉方に付いた別所重棟(別所長治の叔父)が入りました。 そして大村道益は別所重棟を頼りに八木城に仕官しているのです。
『参考文献を参照』
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