坂本城
兵庫県姫路市書写

   
  20数年前には、こんなところに城跡があるなんて今まで知りませんでした。

そして「坂本城跡」の碑を見つけました。参考書籍の写真ではどこにあるのかよくわかりませんでした。しかしこれを見つける苦労も探索の楽しみ方と思います。

何故なら、地形からして、城は書写山側(道の北側)にあると誰でも思うことでしょう。

 
足利尊氏・直義兄弟の権力争いから起こった観音の擾乱(じょうらん)(1350〜1352)で、尊氏が布陣した所として「書写坂本」が出てきます。 京で直義に敗れた尊氏は丹波路を経て、『播磨の書写坂本へ落ちる』という話があります。

この擾乱が始まった頃に播磨守護であった白旗城・赤松円心が亡くなり、その跡は則祐・義則・満祐と継いでいます。 赤松惣領家の赤松満祐は播磨守護職として、支配の中心をこの坂本城に置きました。

嘉吉元年(1441)、赤松満祐は将軍足利義教を殺して、坂本城に引き上げる事件、いわゆる「嘉吉の乱」を起こしたのです。

満祐は、足利冬氏(尊氏の子・直冬の孫)を迎え、義尊と称して将軍に擁立し、坂本の定願寺を井原御所として住まわしていましたが、幕府の追討軍が攻め寄せ、赤松軍は各地で次々に敗れ、ついにはここ坂本城に戻ってきました。

また但馬からは此隅山城・山名持豊(宗全)勢が坂本城に押し寄せ、城は落城し、満祐は城山城(きのやま)に退いて籠城しましたが、大軍に囲まれてついに自刃し、赤松氏は滅びてしまうのです。

嘉吉の乱後は山名持豊が播磨を支配していましたが、その後も山名氏と赤松氏の勢力争いは繰り返えされていました。 いったん滅びた赤松氏は、赤松政則が復活し「応仁の乱」では山名氏と対抗する細川氏側について播磨を奪回したのです。

播磨を安定させた赤松政則は、赤松氏の本拠を置塩城に移し、守護所も御着城に移され、その頃から坂本城の役割は終わったのです。

 

  城跡石碑から見た書写山。

遠くから来た人は是非、書写山にも足を運んでみてください。

 
  書写山の姫路城主・本多家の廟所には、宮本武蔵の弟子・三木之助の墓があります。

武蔵は、本多忠政の嫡男・忠刻とは剣についてよく語り、その指南を三木之助に任せていました。

この忠刻は徳川家康の孫・千姫の夫で、姫路城には千姫が貝合わせを楽しんでいる部屋があります。 貝合わせ(貝殻の表と裏を合わせる遊び)

三木之助は江戸にいて忠刻の死を知り、急ぎ主君の墓前に参上し、切腹して果てました。

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