三田城
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兵庫県三田市屋敷町
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中国自動車道の神戸三田ICを出てから東へ3kmほど行くと、三田市街に入ります。 有馬高校・三田小学校のあたりが三田城(さんだ)跡になっています。
ここ三田は摂津・播磨・丹波を結ぶ交通の要衝であり、古くは白鳳時代から赤松氏の南北朝・有馬氏の戦国時代をへて、そして九鬼氏による近代化へと移り変わってきた地なのです。
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「金心寺(こんしんじ)の山門」
九鬼藩の下屋敷から移されたものです。
天智天皇の頃(668)、藤原鎌足の子・定慧(じょうえ)が鎌足と有間皇子の菩提を弔い、この三田の地に壮大な七堂迦藍をそなえて建てました。
織田信長の摂津・播磨攻めの兵火に巻き込まれ迦藍は灰となりましたが、江戸時代には侍町に再建されたそうです。
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南北朝時代、白旗城主・赤松円心の四男・氏範がこの有馬郡三田に城を築いたのが始まりです。 しかし南朝方だった氏範は播磨の清水山城(加東郡)で自刃し、代わって兄の則祐の子・義祐(則定)が有馬郡の守護となり有馬氏と名乗りました。
有馬氏・五代目の頃に、有馬氏は二つに分かれ、嫡流側の四代目・国秀は伊丹有岡城・荒木村重の支配下となりましたが、不義の疑いから自刃して、その時に有馬氏は絶えてしまったのです。
一方、分家の有馬重則は播磨に進出し、三木市に三津田城、神戸市には淡河城の隣に萩原城を築き、淡河氏との間で戦いを繰り返していました。
天正六年(1578)の秀吉による三木城攻めで功績をあげ淡河城を手にし、さらに関ヶ原の戦いでも東軍に付いたので、ここ有馬郡の領主に返り咲いたのですが、その後丹波の福知山城主をへて、九州・久留米に移封となり、有馬氏による三田支配は終わったのです。
寛永十年(1633)志摩国・鳥羽城から九鬼水軍で知られる九鬼氏が入りました。 九鬼氏は元々、紀伊国(和歌山県)の豪族で、九鬼嘉隆が織田信長に仕え、水軍を率いて毛利水軍と戦い、関ヶ原の戦いでは子・守隆が東軍に属して、その功績により鳥羽の大守にまでなった人物です。
しかし、家督争いから禄高も減らされ、この三田に移されてきたのですが、九鬼氏はこの三田藩の近代化に努め、十三代続いて明治維新を迎えたのです。
『参照文献を参照』
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明治に改築された和洋折衷の「九鬼家の家老屋敷」です。
九鬼氏と言えば、素肌にチョッキを着て舟先で腕組みしている姿を思い出すのですが、実際は山中の三田で功績を残していたのですね。
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有馬高校と三田小学校の間にある「水堀」。 高校前には当時の井戸が見つかっています。
水軍の気持ちを忘れないように、この水堀で舟を浮かべて訓練していたそうです。
江戸時代には、西洋文化の取り入れや、藩校「造士館」も建て、近世化学に力を入れて、日本で初めてビールを造ったり、洋服、テーブルやパンの焼き方なども取り入れたそうです。
心月院には九鬼家歴代藩主の墓碑があります。 |
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三田小学校の校庭にあります。
この付近は、九鬼藩主の居館で、校舎地下には当時の台所跡が保存されています。 |
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