赤松円心の四男・氏範(氏則)は、東播磨の加古郡・印南郡・明石郡・有馬郡を所領し、加古川の天神山城を本拠としました。
建武二年(1336)、足利尊氏が後醍醐天皇と決別した時、赤松一族も尊氏方に付いたのですが、氏範だけは天皇方に付きました。
氏範は天神山城から有馬郡三田城に居城を移し、永徳三年(1386)には足利将軍を討つために京都を攻めたのですが、敗れ播磨に引き返しています。
幕府側は氏範を討伐する為、山名氏清を大将に軍勢を差し向け、氏範が籠もる清水山城を包囲すると、氏範一族は、父子五人・一族郎党百三十七人共々自刃し果てたのです。
その氏範から四代目の永政が清水谷構主となり、氏綱・氏永と続いています。
『参考文献を参照』
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