白山城
兵庫県姫路市書写

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県道67号線を書写山目指して走ります。

2005年11月の最後、紅葉の日。 書写山の山頂には白山城(しろやま)があります。

 
  「白山権現」

性空上人によって開かれた書写山圓教寺、西の比叡山とも呼ばれています。

秀吉は書写山に入り、白山城を本拠として三木城や上月城などの播磨攻めをするんだよ。

 


天正六年(1458)、加古川城には多くの播磨の諸将が召集され、秀吉による毛利攻めの軍議が開かれました。

この時から、三木城主・別所長治は織田氏に叛旗を翻し、秀吉の軍勢はその三木城を攻めました。

秀吉軍が大村坂で陣を構えていた時、別所方は密かに加古川を下り、高砂城主・梶原景行、野口城主・長井四郎左衛門、神吉城主・神吉頼定、志方城主・櫛橋伊則らに援軍を頼みました。

そして別所勢は秀吉陣営に夜襲をかけると、秀吉勢は思いもかけない奇襲に敗退するのです。

秀吉は加古川から姫路に退却し、書写山に陣を構えたのが白山城、十地坊にて軍議を開いた結果、「三木城の兵糧攻め」が始まるのです。

『参考文献を参照』

 

  
摩尼殿
  「摩尼殿」

天録元年(970)、この地で桜の木に天人が舞い降り、「生木如意論・・」と礼拝しているのを見て、性空上人が生木に如意輪観世音を刻まれたのが本尊となりました。

その本尊を安置する本堂をその上に築いたので、岩山によりかかった造りになっているんだね。
 
十妙院
  「十妙院」

「嘉吉の乱」でよく出てくる赤松満祐、その子女が十六歳で世を去り、冥福を祈るために建てたと云われています。

天正七年(1579)、正親町天皇から「岡松院」の勅号を賜り、のち「十妙院」となりました。
 

  
護法石(弁慶のお手玉石)
  「護法石(弁慶のお手玉石)」

石の上に乙天と若天の二人が降り立ち、寺門を守ったと云われています。

また弁慶は、お手玉にしたとも云われているよ。

「安宅の関」の富樫左衛門、よかったなぁ。
 
姫路城主・本多家の廟屋
  「姫路城主・本多家の廟屋」

元和三年(1617)、池田氏の後、姫路城に入った本多忠政は摩尼殿・講堂・金剛堂を修復しています。

ここには忠政、政朝、政長、忠国や宮本三木之助など切腹旬死者の墓碑が祀られているよ。

三木之助は宮本武蔵の弟子と、麓の坂本城で書いてるね。
 

  
姫路城主・松平直基の墓
  「姫路城主・松平直基の墓所」

慶安元年(1648)、家康の孫・直基は出羽国の山形城から姫路城に入りました。

でも途中の江戸にて病気で世を去り、子・直矩がこの地に墓所を建てたのです。
 
姫路城主・榊原家の墓所
  「姫路城主・榊原家の墓所」

慶安二年(1649)、松平氏の後に白河から榊原忠次が入りました。

27歳で世を去った忠次の子・政房、同じく28歳で亡くなった政祐のお墓があります。

それぞれの父・忠政と政邦のお墓は有明山城の増位山にあるんだよ。
 

  
和泉式部の歌塚
  「和泉式部の歌塚」

和泉式部が性空上人に会うため、書写に訪れた時、居留守を使われました。

その時の歌。

「暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月」

弟子から聞いた上人は、急いで一行を呼び戻したのです。

明石の魚住城から気になっていた碑だよ。
 
大講堂
  「大講堂」

寛和二年(968)、花山法皇の勅願により創建された本堂、お経の講義など学問や修行の場です。

食堂・常行堂とともにコの字型に建てられ、「三つの堂」と云われています。

ここで携帯鳴ったら、煙モクモクで消滅かなと書きたいけど、今回はやめておく。
 

  
開山堂(奥の院)
  「開山堂(奥の院)」

寛弘四年(1007)、性空上人の没年、高弟延照が上人を祀るために建てました。

お堂には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められています。

屋根を支える左甚五郎の作も忘れないようにね。

姫路城と書写山、いい日秋の日が過ごせるよ。
 
紅葉
  今年の色は少しベージュ、若者たちは「きれい」と携帯画面に映す。

沢山の秋をすごしてきた、今頃「きれいな色」と感じている。

舞い落ちる瞬間まで「きれい」と映す若者たち。

去年の秋は有馬の落葉山城、重なる落ち葉は待人便り。

今年の落ち葉、「冬仕度」しか映せない、そんな秋なのかな。

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