天正六年(1578)、三木合戦が始まりました。 秀吉は長井四郎左衛門の野口城を落とすと平井山に本陣を置き、三木城を包囲するのです。
三木城周辺を守る神吉頼定の神吉城、櫛橋氏の志方城、梶原景行の高砂城が落ちると、別所方は平井山を攻撃することにしました。
攻撃隊を2つに分け、先陣の大将は別所吉親(長治の叔父)、侍大将は別所宗治、小野権左衛門、櫛橋弥五三、足軽大将は室田内匠、保隅越中守、岡村因幡守、広岡藤九郎、矢田太郎左衛門ら二千五百人。
後陣の大将は別所小八郎治定、侍大将・別所治時(吉親の弟)、別所三太夫、光枝小太郎と道碩、足軽大将は久米忠勝、志水直近など七百人が平井山を目指して出陣しました。
先陣の別所勢は与呂木村で二隊に分かれ、平井山に突進すると、後陣隊は東の山から秀吉の陣所へ一気に攻め込みました。
この時、後陣の別所小八郎治定は奮戦するのですが、秀吉の側近・樋口政武により討死、別所小八郎治定は十八歳だったのです。
慶長六年(1601)、姫路城主・池田輝政の筆頭家老である伊木忠次が三木城主となりました。
伊木忠次は輝政の父・信輝の追善のために、愛知県知多郡大野の斎年寺三世・日山和尚を招いて、「護国山 勝入寺」を建立しています。
元和二年(1616)、姫路城主・池田利隆が36歳の若さで世を去り、嫡男・光政は8歳で幼君のため、池田家は因幡・伯耆へ移封され、お寺も伯州倉吉に移りました。
元和二年、久留美慈眼寺13世・海翁宗智大和尚の特請の開山として、お寺を再建しました。 そして勝入寺から正入寺となり、伊木家の菩提寺となるのです。
『参考文献を参照』
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