田原山城
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兵庫県加西市田原町
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加西の「善坊交差点」を東へ、北条鉄道を渡りすぐに81号線を南東へ走ります。
田原駅の東500mには高森神社、ここが田原城(たはら)と云われています。
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別名は千歳山城、今は高森神社です。
372号線を西に行くと赤松則繁の善坊山城、田原城は善坊山城の支城だったのかな。 |
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城主・相馬秀政は平将門の末裔と称し、相馬秀能の七男で、同じ田原町にある土器山城主・相馬政由とは兄弟になります。
平将門から七代後の相馬実有は、鎌倉幕府二代目執権・北条義時の子重時に従い、その戦功により印南郡小松原(高砂市)と揖西郡伊津浦を賜りました。
ここで高砂市の小松原城を見てみる。
弘長元年(1261)、赤松盛忠が北条重時に従い、鎌倉で三浦義村の子・律師良賢が謀叛を起こした乱で功が認められ、この地を与えられて小松原盛忠と名を改めました。 とある、何か関係がありそうだね。
実有から七代後の秀政の時、賀茂郡(加西市あたり)に移り住みました。 秀政には子がないため、網引の高田采女正信兼を養子として迎えたのです。
嘉吉元年(1441)、赤松氏が滅亡する「嘉吉の乱」で、秀政は水田城主(龍野市)に従い、水田城に籠もるのですが山名勢に攻められ消息知れずとなりました。 一説には善坊山城主・赤松則繁に従って朝鮮へ逃れたとも云われています。
この田原城も落城し、のち兼清は相馬姓から高田姓を名乗るのです。 高田兼清は赤松の遺臣が南朝に侵入して神霊を取り戻し、赤松家の再興を図った時の一人です。
応仁の乱では、別所城主・別所則治や芥田城主・世良田氏など、加西の赤松氏ゆかりの四十三人と共に、赤松政則に従って山名宗全と戦いました。
この功績により、政則から一字を賜り「政久」と改めるのですが、文明七年(1457)、室津で山名氏と戦い討死するのです。
この高田城は五代目・高田政弘が城を閉じて民間になると、廃城となりました。
『参考文献を参照』
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「相馬氏」
こんもりとした小山に神社、これは東から見ているよ。
どの辺りに居館跡あったのかな、けっこう広い範囲と云われているよ。
後ろには万願寺川が流れてる、南へ行けば小野市で加古川と合流、そして加古川・高砂の河口につながるよ。
東国の相馬氏、播磨での運命は同じ流れだったんだね。 |
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