天正六年(1458)、加古川城には多くの播磨の諸将が召集され、秀吉による毛利攻めの軍議が開かれました。
三木城からは別所長治の代理として、別所吉親と三宅治忠が参加、この頃から別所氏は織田氏に叛旗を翻します。
秀吉軍は野口城を落とし、平井山に本陣を構え、つづけて神吉城・志方城・高砂城を落としました。
天正七年(1459)、毛利軍が東の丹生山を越えて、三木城へ兵糧を入れると、秀吉は丹生山砦を焼き打ちし、淡河城を落としました。
そして三木城を囲んだ陣を南を八幡山、西は平田、北は長屋、東は大塚まで進めるのです。 秀吉は大宮八幡社の裏手にある宮の上の要害を乗っ取り、別所友之が守る鷹の尾城へと攻め込みました。
鷹の尾城は、まもなく秀吉軍の手に落ち、残るは三木新城、二の丸そして本丸のみとなるのです。
『参考文献を参照』
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