高砂城
兵庫県高砂市高砂町東宮町

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  姫路から明姫幹線(国道250号線)に入り、加古川の手前中島交差点を南へ、山陽電鉄高砂駅を越えて南約1km、高砂相生の松で知られる高砂神社あたりが高砂城(たかさご)です。

高砂の浦城とも呼ばれ、海の守りや海上交通の要としての役割を果たしていました。

 
  一説には梶原氏は少し北西の小松原城を拠点にして、この高砂城は池田氏からともいわれています。

高砂神社の境内には特に城跡らしいものはないのですが、神社外壁の基礎には高砂城の石垣が使われているそうです。

 
高砂城の梶原氏が歴史に出てくるのは天文七年(1538)のころです。

梶原氏はもともと相模国に住み、梶原太郎と称したのが始まりで、四代目の景時は源頼朝に仕えていました。 景時は播磨の守護に命じられ、この時期から梶原氏と播磨との関わりが生まれてきたのです。

そして歴史の表舞台に登場するのは、天正六年(1578)羽柴秀吉の三木城攻めの頃、高砂城は三木城への兵糧供給基地の役割を果たし、播磨灘の海上を守っていたのです。 毛利勢の吉川元春、小早川隆景の応援を得て、高砂から加古川、三木川をさかのぼるルートで三木城に運び入れていました。 それを知った秀吉は軍船を河口付近の今津に軍を配置して高砂城を攻めました。

景行は討って出ましたが、この時に松明の火が高砂神社の神木(相生の松)に燃え移り、この火は三の丸や近隣の家を焼き、海岸の船百艘も燃やしたと言われてます。

秀吉は高砂、飾磨、網干、室津に番船を配置し、毛利からの援軍を断ったので、さすがの景行も高砂城を放棄し、一族は三木城に入ったのですが、景行は加古川の鶴林寺の近くに居たともいわれています。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、池田輝政が姫路城を築き、海の守りを固めるために高砂城も築きました。城主は中村正勝になっていましたが、のち家康の一国一城により高砂城は取り壊されました。

『参考文献を参照』

 

相生の松
  「相生の松」

高砂や この浦舟に 帆をあげて・・とうたわれる謡曲「高砂」は世阿弥の作で、松林が美しいことで知られていた高砂の浦を舞台にしています。

元和三年(1625)に姫路城主になった本多忠政は相生の松(三代目)も植えたといわれてます。

現在は五代目の松が歴史を受け継いでいます。

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