竹田城
兵庫県朝来市和田山町竹田

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  播但連絡道路、「和田山IC」で降りてから312号線を1.5kmほど南へ行き、竹田交差点を西へ曲がるとJR播但線竹田駅のすぐ西側には標高353m古城山の山頂に竹田城(たけだ)があります。

この竹田の町は、中世の時代から但馬の重要な戦略基地の城下町として栄え、その竹田城は全国の山城の中でも、完全な形で残っている壮大かつ屈指の山城遺構なのです。

山名宗全がこの竹田の地に築き、戦国の世を生きた天下の山城は、今も美しき壮大な夢の跡が残っているのです。

 
  その美しさは、あたかも飛鳥の双翼を広げるように、そして縄張りの見事さは全国でも指折りの城郭なのです。

最高所の中央に「天守台」・「二の丸」・「三の丸」「南二の丸」が悌郭式(ていかく)に配置され、大手口を防御する「北千畳郭」と搦手口の「南千畳郭」を双翼としています。

さらに天守台の北には「花屋敷郭」があります。

あまりに壮大なので、写真の幅に入らないのです。 うまく入れようとすると、後ろに落ちてしまうのです。
 

 
竹田城は嘉吉年間(1441-43)に、守護大名の山名持豊(宗全)が有力家臣のひとりである太田垣に築かせた城である。 その頃の竹田城は砦に近かったと云われています。

最近の調査で、現在のような壮大な石積みの城郭になったのは、廃城時(慶長5年 1600)にごく近い時代と考えられています。

竹田城の縄張りは、最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸・南二の丸が悌郭式に配され、大手口を防御する枡形部に沿う北千畳郭と搦手口のある南千畳を双翼とし、さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭がありました。

また城郭の周囲には現在の石垣より古い時代の遺構である竪堀も確認され、複合遺構として今後の総合的な調査・保存が必要となっています。

規模は南北約400m、東西約100mです。

『現地案内を参照』

 

  
  竹田城の見せ場は石垣にあります。 この石垣は野面積みの一種である穴太積み(あのう)を採用しています。

穴太積みは、近江国の坂本を中心に発達した石積み技術集団・穴太衆の石垣構築法の総称です。

穴太衆は大陸からの渡来人といわれ、六世紀頃の大津には二千を超える「横穴式古墳」の石室を造り、その技法を受け継いできたものなのです。

野面積みは、加工をほどこさない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く、一見して粗雑に見えるのですが、とても水はけがよく、崩れを防いでいるのです。
 
  「石垣」

織田信長が比叡山の焼き討ちで、穴太積みの存在を知り、安土の築城にも採用した際に、穴太衆は一躍有名になりました。

姫路城・大阪城・伏見城など全国で数多くの城に採用されています。

築城から400年経ちますが、一部の復元箇所を除いては当時のまま、その姿を残しています。
 

  
山名氏・赤松氏の両軍供養塔
  登山口(駐車場横)にある「山名氏・赤松氏の両軍供養塔」です。

両軍の子孫が和睦を結び建てました。
 
  門から山を周回して「大手門」から入るコースと、近道の「花屋敷」から入るコースがあります。

帰りは近道コースで降りるつもりが、道に迷って急な斜面の木々をつかまりながら必死で降りていました。 下の道から年配の方が不思議そうに見て通り過ぎました。

足にアザができ、手にはトゲが刺さり、麓の「観光案内所」でペンチを借りました。 とても親切にしていただき、思わず「竹田城カレンダー」を買いました。
 

  
   

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