丹生山城
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兵庫県神戸市北区山田町坂本
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第二神明、伊川谷から北神戸線に乗り換えて「箕谷」で降ります。
国道428号線を西へ、「原野南」から85号線を西へ走ると、2.5kmぐらいで丹生神社の鳥居、その北側には標高515m山頂に丹生山城(たんじょうさん)があります。
2006年4月、黄砂で霞むと桜も満開。 久しぶりの兵庫、ここは三木城へ糧を運んだお城だよ。
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舒明天皇三年(552)、百済の聖明王の王子・恵が日本に来て、明要寺を建てました。
南北朝時代には、後醍醐天皇や楠木正成らの南朝方に味方したとも云われています。
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天正六年(1578)、秀吉による三木城攻め、つまり「干殺し攻め」が始まると、別所方に味方する援軍は三木城への兵糧輸送を始めました。
毛利方は梶原景行が守る高砂城から、加古川を舟で上って兵糧を運ぶのですが、秀吉は高砂城を攻撃すると落城、このルートは閉鎖されました。
次に姫路の英賀城主・三木通秋が三木城へ糧を運ぶと、再び毛利方は明石の魚住城から運搬をしていたのですが、これも秀吉に見つかり、そのルートは絶えました。
そこで毛利方は、明石から兵庫に回り、荒木村重が守る花隈城に兵糧を入れ、この丹生山を経由して三木城へ運び込むのです。
その時、丹生山に砦を築き、南口を守ったのは志方城の幕下である神木構主・高橋平左衛門政純、北口を守ったのが淡河城主・淡河定範です。
天正七年(1579)、このルートも秀吉の知るところとなり、弟・秀長に命じて丹生山に火をかけると、丹生山の全てが焼けるのです。
『参考文献を参照』
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「丹生神社の鳥居」
古代から丹生氏の氏神として丹生都比売命(にうつひめのみこと)を祀っていました。
神功皇后が新羅へ出兵する時、丹生都比売命から丹土(あかつち)をもらい、全てを真っ赤に塗ったおかげで無事に帰ったという話が伝わります。
横には義経を鵯越まで案内した鷲尾三郎経春の碑の案内もあるからね。 |
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「地蔵尊」
鳥居から山裾に来ると、ここが登山口だよ。
横には宝物殿、清盛が寄進した「当山景画大幅」や、秀吉の「公朱印折紙」が保存されています。
丹生山城まで2.8km、「太陽と緑の道」を上っていくよ、山城は久しぶり、ついてこれるかな。 |
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「登山道」
よく整備された道、あと何丁と刻まれた石標。
最初は3丁、楽と思ったけど、1丁の次は20丁から始まる。
谷の流れを聞き、ツツジを見ながら石段上る、休憩しては黄砂で見えない明石海峡、やっと着きました、あと少し。 |
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「明要寺跡」
ここが一丁、道沿いにはお寺の石垣が続きます。
このお寺が三木城攻めの時に焼けたんだね、石が焼けてるよ。
石の積み方は2種類、下側はお寺の石と思うけど、上の段はお城の積み方かな。
人の話を聞かないね、先に行くよ。 |
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「丹生神社」
清盛が福原に遷都した時、日吉山王権現を祀る山王社を建立し、沢山の堂塔には、多くの僧兵がいたらしいよ。
ここからシビレ山・帝釈山へと続いている。
神社の社務所、久々の山おにぎりは美味しいね。 |
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堀切も久々、シビレ山へ行く途中、南北朝時代に造っていたのかな。
地図を見る、港神戸の花隈城からどの道で運んだのかな。
今なら、神戸電鉄有馬線で義経のひよどり越え、箕谷駅で降りてから西に行くと丹生山。
西のシビレ山を北へ降りる、なんと三木市の志染町、三木城はもうすぐだよ。 |
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「シビレ山 古代祭祀跡」
ここで何をしていたんだろう、何故、シビレ山と呼ばれるのかな。
古代の言葉かな。
いくら考えても足がシビレた、しか出てこない、分かるのは古代の人だけかな。 |
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「南の風景」
ここはシビレ山、たぶん向こうの山が丹生山、随分歩いてきたよ。
昨日は公園でお花見、でも黄砂でモヤがかかっていた。
お肉より野菜の方が美味しい年頃だけど、久しく美しい風景でパワー全開、さあ行くよ帝釈山の方へ。 つづくよ |
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