蒲公英城
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兵庫県神戸市北区道場町日下部
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中国自動車道、「神戸三田IC」を降りて、南の17号線を東へ走りると国道176号線に出ます。 神戸市と三田市の境界から南1kmほどの神鉄道場駅を目指すと、駅と有野川に挟まれた丘には蒲公英城(たんぽぽ)があります。
2004年12月、冬なのに暖かい日が続く。 疲れ過ぎた戦いに、春咲く花も風の中へ飛んでしまうかな。
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名前は松原城や道場城ともいう、でも蒲公英(たんぽぽ)はとてもかわいい名前だよね。
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元弘三年(1332)、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を計画し、足利尊氏や赤松円心も天皇に協力したのですが、「建武の新政」が始まると、天皇と尊氏の仲が悪くなり、円心はじめ赤松一族も尊氏方に付きました。(北朝方)
しかし円心の四男・氏範(氏則)だけは、最後まで天皇方(南朝方)をつらぬき、加古郡・印南郡・明石郡・有馬郡を領有しました。
氏範は加古川の天神山城から三田城に移ると、長男・氏春に蒲公英城、次男・家則に桑原城(三田市)、三男・祐春に船坂城(西宮市山口)、四男・季則には岡山城(三田市)を守らせました。
永徳三年(1386)、氏範は足利将軍を討つために京都を攻めたのですが敗退、加東郡の播磨清水寺で北朝方と戦い、ついに父子五人・一族郎党百三十七人共々自刃したのです。
嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍・足利義教の首を取った「嘉吉の乱」の後、赤松一族は衰退します。 しかし応仁の乱では、赤松政則が播磨から山名氏を追い払い一族は復興するのです。
この時、政則に従った松原貞基(満祐の弟・祐之の子)は功績を挙げて蒲公英城を貰い、のち義貞・家久・家長・義富と続きました。
永正八年(1511)、義貞は足利義植を奉じた大内義興と、足利義澄方の細川澄元との「京都船岡山の合戦」で、細川政賢と戦い討死しています。
享禄三年(1530)、家久も細川高国と晴元との争いで、高国方に付いた姫路の庄山城主・浦上村宗と戦い討死しました。
天文八年(1539)、家長は出雲の尼子晴久が播磨の上月城を奪う時に、尼子氏と戦っています。
そして義富が三木城主・別所長治に味方した時、秀吉は中川清秀、塩川国満、山崎家盛、池田輝政に蒲公英城を包囲させました。
天正七年(1579)三月、城主と一族は自害、その時「たんぽぽ」も春の風に消えるのです。
『参考文献を参照』
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一周回って元の場所。
案内には「たんぽぽ」は「つづみ草」と呼ばれ、城主の娘が鼓の名手だったことから蒲公英城と呼ばれたらしいよ。
ここはお城の裏、道がありそうだから登ってみるね。
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「道がない」
おかしいな、道がすっと消えて草の中。 あの上、どこから登ったらいいのかな。
コンクリートの細い溝があった、そこを登るよ。 |
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上まで来たよ、笹は胸の高さ。 左に行ったけど、落ちそうな場所、右に行くよ。
お昼どき、おにぎり食べたいけど、ここで落としたら分からなくなるね。 |
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「何かな」
この場所、何かあったのかな、一見公園の鯉を泳がせてたような所だよ。 何やろね。 |
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「西の丸」
また一段上がるよ、平らで広い場所に出た。
5mほど進んだけど、右側に赤いペケ印があるよ。
何やろ、行ってみるね。
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「井戸」
もう水はすっかり渇いてる、ここに赤松円心の子や孫がいたのか。
そういえば最近、千種川あたりに行ってないよね。
円心が挙兵した苔縄城はまだ前編だけ、300城も近いし。
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「本丸跡」
赤いペケ印だと思っていたのは神社の鳥居だったんだ。
白山稲荷神社とある、10年ほど前に還宮さえたとある。
この前の広いところが本丸、どこで八千代という娘は鼓をうっていたのかな。
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後ろを振り返る、今来た道だよね。
少し風景が変わってるけど。
「大丈夫、こちらから降りるんだよ」と教えてくれてるよ。
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「有野川」
緊張したよ、たんぽぽ城。
暖かくなると、この有野川に沢山咲くかな、綿帽子。
それとも春風にすっと消してしまうのかな。
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