楯岩城
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兵庫県揖保郡太子町太子
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国道179号線「太田交差点」を北へ入ります。 300mほどで東へ曲がりゴルフ練習場の方向へ、そこから城山への道を登ります。
姫路バイパス(正確には太子龍野バイパス)をそのまま西へ走ると「城山トンネル」があります。 このトンネルの上には標高250mの山頂に楯岩城(たていわ)があります。
ここも赤松氏一族の跡を残す城跡、でも赤松氏再興の後では敵対するようになった城跡なんだよ。
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太田城の二の丸とも言われる楯岩城。 名前の通り、山には岩や石がごろごろしています。
この岩は何に使ったのかな、アートな食卓台にしたいような岩だよ。 |
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赤松円心には4人の子・範資、貞範、則祐、氏範がいます。 建武年間(1334-36)、長男範資の子・則広(弘)が広岡氏と名乗り、この楯岩城を築きました。
また、この楯岩城から南西7kmの揖保川西沿いには、赤松範資から三代後・教弘が梶山城を築いています。 この頃は、この楯岩城と梶山城は赤松一族として味方同士でした。
嘉吉の乱(1441)で赤松一族が滅亡し、応仁の乱で赤松政則が復興させ、置城城を本拠としました。 この政則には養子の義村と側室の子・村秀があり、義村は置塩城の二代目城主、そして村秀は龍野の鶏籠山城主となりました。
しかし置塩城では赤松義村と家臣・浦上村宗との間で対立が始まります。 永正三年(1506)、浦上村宗は備前の三石城から室津の室山城に侵攻してきたのです。 そこで龍野の赤松村秀は広岡氏とともに赤松義村に味方し、この楯岩城の本城である太田城で陣を構えました。
この時の広岡氏は広岡殿と呼ばれ、赤松村秀の弟・中務丞だと言われています。 しかし、この広岡殿は兄を裏切り、浦上村宗側に付いたため、太田の陣は敗北し義村は敗北するのです。 この時、村秀は「兄弟の間では剣を交えない」と広岡氏と約束していたので、じっと楯岩城で耐え忍んでいたそうです。
その後、広岡氏は浦上氏と結んで置塩城や龍野城の赤松氏と抗争を繰り返し、弘治二年(1559)には梶原城の肥塚一族を攻め落としているのです。
『参考文献を参照』
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「新しい階段」
中腹にある「特別養護老人ホーム聖園」まで車で登れます。 聖園手前のクサリが張られた道を少し登ると、新しい道ができていました。
小川の跡には「おっ、石垣」と思う所もあったけど、せき止め用みたいです。 |
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「電波塔」
5分ぐらいで山頂、途中にも沢山の石が散乱していました。
この電波塔でここが城跡だと確信したよ。 たまに城跡には送電塔や電波塔があって、そういう山には整備用の道があるので、とても安心だね。
この建物を考える時の会議に参加したいよ、ホワイトボードに堂々とお城の絵が描けるんだよね。 楽しそう。
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電波塔から西南へと進むと曲輪跡がありましたが、どこが本丸で、どこが二の丸かはよく分からないよ。 また調べておくね。
電波塔から北側にも曲輪があるよ。 |
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「丸い石」
この山には元々このぐらいの岩があったのかな、それを集めて並べてるようです。
皆なで必死に運んだのに、おむすびみたいに転がっていったのもあるやろうね。 |
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「三角の石」
今度は三角形だよ、しかも少し色艶が違うね。
山全体に岩がバラバラに散乱しているようでも、所々で並んでいるんだよ。 |
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「黒岡神社の古墳」
山麓集落の黒岡神社には 「藤原貞国」の古墳があります。
藤原貞国は、764年の奈良時代に新羅が海路で家島へ攻め込んできた時、それを撃ち破りました。 その功績で飾摩・揖保・宍粟・佐用・赤穂の長官となり、太田の里に住んだ人物です。
この太子町は聖徳太子ゆかりの地ということは知っていたけど、まだまだ知らないことが沢山ありそうだよ。
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