鶴 城
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兵庫県豊岡市山本・船町
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播但連絡道路「和田山IC」で降りて国道312号線を北上、豊岡市街を北へ抜けたあたりで円山川の「豊岡大橋」を東へ渡ります。 まもなく豊岡トンネル、その上の標高107m愛宕山に鶴城(つる)があります。
2005年6月、一年越しの但馬のお城。 風景地図は心で描く、花咲く小道、そんな地図を作りたいな。
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鶴城があるから亀城もある、それは豊岡市街の神武山、つまり豊岡城のことだね。
前に但馬に来たのは6月、三開城から一年ぶり、201城目だったんだね。
ここは山名四天王のひとり、田結庄氏のお城だよ。 |
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永享年間(1429-41)、山名宗全が築城し、山名四天王のひとり田結庄氏が城主でした。
山名四天王とは、垣屋氏・太田垣氏・八木氏・田結庄氏のことです。
垣屋氏は楽々前城・宵田城(豊岡市日高町)・轟城(竹野町)、太田垣氏は竹田城(朝来市和田山町)、八木氏は八木城(養父市八鹿町)、そして田結庄氏が鶴城を本拠としました。
嘉吉元年(1441)、赤松満祐の「嘉吉の乱」の時、但馬の山名宗全は播磨を攻め、赤松氏滅亡後、垣屋熈続・太田垣誠朝・犬橋氏を播磨守護代に命じ、残る赤松氏を一掃しようとし、その時に田結庄豊房も姫路の陰山荘(船津あたり)の代官になっています。
山名宗全から五代後・祐豊の頃には、尼子氏、毛利氏、織田氏の勢力の間で山名氏は衰退し、家臣の間にも織田氏に付くことを主張する田結庄氏と、毛利方に付く意見を持った垣屋氏が対立しました。
天正三年(1575)、山名祐豊が長谷(豊岡市長谷)で、かきつばた見学の宴を開いた時、鶴ケ峰城主・垣屋光成の家臣が鉄砲で鳥を撃ち、その流れ弾が田結庄是義の幕の中に落ちたため、是義は光成の家臣を捕らえて命を取るのです。
垣屋光成は復讐のため、田結庄是義が大原山(豊岡市岩井・養寿院)に参詣しているすきに、兵を集めて鶴城を囲みました。 是義は急ぎ帰り敵を攻めるのですが敗れ正福寺で自害するのです。 (野田合戦、案内では垣屋豊継に攻められたとあります)
『参考文献を参照』
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「登山口」
豊岡大橋を東へ渡り、そのまま178号線を走る。 トンネルを抜けると、やがて日本海の久美浜に行ってしまう。
トンネル手前で南に行くとこの登山口だよ。
石段登るとすぐに天満宮社、この登山口から左の山麓には殿屋敷跡があったんだね。 |
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「貴布弥の道」
天満宮社の裏手から愛宕山への登山道、緑も光っている。
貴船神社があるから貴布弥と言うのかな、詳しくは分からないよ。
とにかく道をどんどん歩けばいい、途中ロープの道もあるから楽しい。 |
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山頂近くまで来た、大きな堀切、山頂辺りでぐるぐる回ったから、方向が分からない。
磁石は持っている、でも山の地図は忘れた。
後で案内や資料の地図を見て考えている、いったいどの道を歩いたのかな。
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「主郭」
南北66m、東西460mだからすごいお城。
一段高くなっている所が主郭、愛宕神社がある、江戸時代には宝城寺があったらしいよ。
去年台風で倒れた木々、神社が主郭跡だと思っていたけど、地図では違うような気もするよ。 |
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主郭と思った郭の北側、昔の石積みがあるよ。
ここの下が大きく窪んでいる、井戸だったのかな。
とにかく嬉しい、愛宕神社の石階段もなかなか良い感じだよ。 |
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「東の風景」
「下の宮川」という川かな、この方向の道が但馬漁火ライン、京都の久美浜や宮津に行く。
随分前の様な気がする久美浜、でも同じ日なんだよ。 鹿と出会ったのも同じ日。
帰りは貴船神社の方(北側)へ降りていく。
800mぐらいの道、途中には道が崩れた所、最後は竹林、そして歩道に出るよ。
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「風景地図」
ここの登山口には「金剛の道」とある、貴船神社はどこだったのかな、帰って地図を見るよ。
田植えを終えた頃の花。
色、風、光、季節、そんな風景地図。
忘れることのない、心のリュックに入れておくよ。 |
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