文治年間(1185-90)、関東の御家人である塩津新左衛門義経が頼朝から揖保郡広山荘、大市郷、小宅荘の地頭を任じられ、内山城を築きました。 嘉吉元年(1441)、赤松満祐が起こした「嘉吉の変」の時には、塩津義秀は赤松満祐に属し、明石の和坂に出陣して討死をし、子・義信は赤松氏の滅亡に殉じて仏門に入りました。 延徳年間(1489-92)、その子・義元はこのお城に入り、のち広山の大隈構居に移りました。 『参考文献を参照』