この山路城から北へ歩く、阪急岡本駅を越えると岡本梅林住宅があります。
元弘三年(1333)、大塔宮護良親王の令旨を受けた赤松円心は、摩耶山城に籠り、足利尊氏と協力して入京、ついに北条時益は戦死、北条仲時は近江に敗走します。
隠岐を脱出した後醍醐天皇による論功行賞で、円心は播磨守護と佐用荘の地頭が与えられ、新田義貞が播磨守護、楠木正成は摂津守護になりました。
これを不満とした円心は、長男・範資らと滝山城や再度山の多々部城に入り尊氏と呼応し、天皇方と対抗するのです。
建武三年(1336)、箱根竹ノ下の合戦で新田義貞を破った尊氏は京都に入るのですが、陸奥の北畠顕家や楠木正成の軍勢に京を追われ、九州へ落ちました。
九州で勢力を回復した足利軍は東上、それを迎え打つ天皇方の総大将・新田義貞は神戸の和田岬、楠木正成は湊川で陣を構えます。
尊氏が海から新田軍を攻めると新田軍は東へ退き、正成は湊川で孤立し自刃。
この頃、赤松範資は摂津守となり岡本梅林住宅あたりに築いたのが五百山城、そして平時の居館がこの山路城と云われています。
『参考文献を参照』
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