山崎城
兵庫県宍栗市山崎町鹿沢

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  国道29号線を鳥取方面に北上し、中国縦貫道路沿いを走ると、間もなく山崎の町に入ります。 中広瀬交差点を西へ500mほど行くと、山崎町役場があり、その南側の本多公園が山崎城(やまさき)です。

中世の頃は、北側の山頂に「篠の丸城」が築かれていましたが、近世になってからは、平地に築いたこの山崎城が、領地の中心となりました。

 
  本多氏時代の「紙屋門」です。

山崎城の本丸玄関先に位置し、「高麗式透かし門」で、建築資金を出した「紙屋」の名をとっています。

丸瓦には本多氏の家紋があります。
 

 
この辺一帯が山崎城であり、別名を宍粟城と言っていました。

今から三百七十余年前(元和元年六月)、徳川家康の孫にあたる松平石見守輝澄が宍粟郡三万八千石をもらって山崎の地に城を築きます。

寛永八年、赤穂城主であった弟の政綱の死去により佐用郡と赤穂郡の内から三万石を加えられて六万八千石となりました。

寛永十五年、御家騒動により、同十七年、領地没収となり、代わって岸和田城より松平周防守康映が城主となり宍粟郡・佐用郡の内五万石を賜り、この城は、宍粟・佐用を相和した城であることから、城の名を「宍佐和城」と名づけました。

周防守は城域を整え城下の繁栄をはかりましたが、在城十二年余りで康安二年、島根県浜田に移ります。
その後には、岡山県から池田光政の弟・松平備後守が城主となり宍粟郡の三万石を賜りました。

寛文十一年、恒元が死去し、その子・豊前守政周が後を継ぎましたが、延宝五年政周がなくなり養子の数馬が後を継ぎました。

延宝六年、幼名数馬も江戸で急逝、家を継ぐ子がなく、御家は断絶、領地は一旦幕府の領地となり、延宝七年、本多肥後守忠英が一万石の城主となります。

前藩主・松平数馬の城域に館を造り、それ以来ここを「穴澤城陣屋」と呼びました。

その後、藩主九代が継続し明治維新となり、明治五年、学制頒布により、この地の山崎藩邸がそのまま学校になり、現在の山崎小学校に至るのです。

『現地案内を参照』

 

  
 

「鹿澤城本丸跡」の石碑。

別名、鹿澤城(しかざわ)ともいわれています。
本多公園が「本丸」、その東に「ニの丸」、西には「三の丸」を置いて城の北側に城下町を造っていました。

 

 
  少し東にある山崎小学校の正門には「表御門跡」碑があります。

この門は松平氏までは、搦手の裏門でしたが、本多氏からは表御門となりました。 槍を立てたまま通ることができるほど背が高い門でした。

明治五年、学制頌布によって、この山崎藩邸がそのまま学校になったのが、この小学校です。
 

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