矢野城
兵庫県相生市矢野町森藤堂

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  新幹線相生駅を過ぎて「竜泉交差点」から44号線を北上します。 真広交差点を過ぎると「羅漢の里・感状山城」の標識があるのですが、そのまま北の「市ノ瀬橋」を渡ると、ちょうど感状山城が正面に見え、この南山麓に矢野城(やの)があります。

2004年4月は天気良し、山頂の城跡見ながら、ゆっくり歩いて探索もいいものだよね。

 
  感状山城の山麓というだけで、矢野城へ来ました。

「羅漢の里」で駐車し、山裾を見つめながら南へと歩きます。

でも、ここにあったんだよね。
 

 


建武三年(1336)、足利尊氏は京の戦いで南朝方に敗れ、九州に落ちていきました。 新田義貞は南朝方から尊氏討伐の命を受け、六万の兵で播磨に押し寄せてきた時、播磨の赤松円心は尊氏側に付きました。

円心は長男・範資を市川沿いの姫山城(のちの姫路城)・妻鹿城・広峰城、三男・則祐に揖保川沿いの城山城、基山城、投石城、そして二男・貞範には千種川沿いの駒山城・天王城・保気城に配置させました。 

また室山城・大島城で瀬戸内からの攻撃に備え、遊撃基地として相生には光明山城・下土井城・感状山城を構えました。 この矢野城は長子・範資の子である赤松則実が築城しています。 そして新田側の大軍は白旗城を攻めたのですが落とすことはできず、九州で体制を整えた尊氏は東進してくるのです。

尊氏は京都を奪回し、室町幕府を開いたのですが、弟・直義とは決裂し、尊氏は直義の命までも奪いました。(観応の擾乱) その後、反尊氏派の斯波高経や桃井直常らが京都へ攻め入り、続いて直義の子・直冬も山名時氏らと入京してきたのです。

文和四年(1355)、赤松則実は足利尊氏の子・義詮を助ける為に、山名時氏と戦うのですが、その時に敗死をしています。

『参考文献を参照』

 

  
大きな石垣
  「羅漢の里」から800mほど南まで歩くと、丁度山の先端に「八柱神社」があり、この間をかなり探したけど見つからないよ。

少し東に行くと、お墓の横にそれらしき石垣があったので、矢野城と思った。 でも、幅10mぐらいだし、更に「光専寺」の方へと歩いたよ。

すると、ここだったんだね。

山裾には石垣が、これでも圧倒されそうだけど、もう少し奥に入るんだよ。
   
井戸
  ここに井戸があるとは、当時使われていたのだろうか。

不思議な場面に出合った感じだよ。
  

  
石垣の囲い
  東・北・西の三方が囲まれてる。 それもすごい長さ、三方合わすと200mぐらいだよ。 すごいよね。

どのような役割をしていたのかな、家の塀のように使ったのかな。 でも「コの字」が逆になっているし、よく分からないよ。
   
石垣
  中に入ると掘られた跡と土塁、そして一番上には小さな池がある。

でも屋敷が建てられる平面らしきところがないのだけど。 これも分からないよね。
 

  
感状山
  「感状山」

天気良し、感状山も緑が映える、矢野城も見れたし。 さて帰るとするか。

車は丁度、感状山の反対側。 山麓の道で戻るか、山を登って向こう側へ降りるか。

すごく迷ってしまうぐらい、微妙なところにあったんだよね。
  

城跡探索