米田城
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兵庫県佐用郡佐用町米田
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中国自動車道「佐用IC」で降り、国道373号線を南へ、すぐ179号線を東へ入り、JR徳久駅がある「駅前交差点」を西側の368号線に曲がります。
姫新線を越えてすぐに千種川を南へと渡ると、その東側には標高150mの山に米田城(よねだ)があります。
2004年8月、最後まで「雪花姫」には会えなかったけど、真夏はやっぱり「ひまわり」に出会う方が似合うよね。
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北側に流れる千種川から見た米田城、登るのは南側の集落の中を通り抜け、山頂の「城山会館」を目指します。
南側で「雪花姫の墓」を探し回ったあとで、北側から写真を撮ったけど、たしか「米田城」はこの山だよね。
(間違っていたらごめんね) |
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嘉承二年(1107)、源師房から九代の孫・師季が播磨佐用庄に移り、その子・季房が山田季則と名のりました。
建久二年(1191)、山田季則の孫・則景は源頼朝から佐用荘地頭職を受け、この米田城を築き、のち長谷高山城に移り米田城は弟・為助が完成させました。 この為助が宇野氏と称して為助・為頼・景頼・頼定・宗清・定明・国頼と続いています。
また一方、山田則景の子に景能(間島氏)、頼景(得平氏)、有景(櫛田氏)、家範(赤松氏)がおり、この得平氏も米田城と関係があるのです。
嘉吉元年(1441)、宇野国頼から三代後・頼則の時、主家・赤松満祐が将軍足利義教を殺害した「嘉吉の乱」で、頼則も赤松一族とともに城山城で自害し、米田城も美作から山名教清に攻撃され落城しています。
この時、宇野頼則の子・満利は密かに逃れ、応仁の乱の時に赤松政則が一族を再興させ置塩城を築いた時、満利も宇野氏を復活させて長水城に入り、米田城には赤松一族(得平氏と思われるが)が入りました。
文明六年(1485)、再び山名宗全の孫・政豊に攻められ落城、のち得平源三が入るのですが置塩城主・赤松義村と戦い落城しています。 と書いていて不思議なのは、得平氏も赤松一族なのに何故義村と戦ったのかな。 赤松義村と重臣・浦上村宗との対立で、得平氏は浦上氏方に付いたのでしょうか。
天文元年(1532)、出雲の月山富田城主・尼子経久は赤松氏が領有していた岡山美作に侵攻、天文六年(1567)には尼子晴久(詮久)が西播磨へと攻め込み、天文七年(1538)には米田城も攻撃を受け、城主・得平祐清は敗れて尼子氏に従いました。
天文八年(1539)、尼子氏は安芸や石見で大内義隆との対立が起こり、播磨から撤退し大内氏を退けています。
天文二十年(1551)、出雲で敗れた大内義隆は陶晴賢に殺害され、その陶晴賢を安芸の郡山城主・毛利元就が厳島で破りました。
永禄九年(1566)、尼子氏の月山富田城は毛利氏に落とされました。 この頃、得平祐清は城を放棄し宇野氏が守る篠の丸城に逃れて宇野氏とともに毛利氏に従い、のち米田城は廃城となりました。
『参考文献を参照』
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「案内図」
まずは南光町役場に寄り、案内図を見ていました。
米田城の西には秀吉が上月城攻めの本陣を置いた「高倉山」がある。
でもそれ以上に「雪花姫の墓」が気になったよ。
秀吉の本陣に行くか雪花姫か、ここは迷わず雪花姫だよね。 |
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「中腹あたり」
中腹あたりの道沿いに広く整地された場所があった、昔の侍屋敷かな。
ここは山頂近く、道の傍らに五輪塔が有る。 山を横切るように中に入っていくと竪堀があるよ。
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山頂近くから下を見ると、 削平地が沢山ある。
この米田城にもその尼子氏や毛利氏の話が出てくるんだよ。
最近、ビデオで「毛利元就」を見た、昔の大河ドラマの総集編4巻だよ。
安芸の郡山城・毛利元就、出雲の月山富田城主・尼子経久。 尼子経久もしぶいよね。
行きたいなぁ「がっさんつきやま」頭から離れないよ、 間違ってるけど。
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ここが一番高い所、城山会館の駐車場の西面だね。
ここを探索するか「雪花姫」かと聞かれたら、やっぱり「雪花姫」なので、そちらに向かいました。 |
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「向日葵」
おかしいなぁ、「雪花姫」が見つからないよ。
また南光町役場の案内を見に行った。 もう一度探したけど、見つからない。
見たかったな「雪花姫」、会えないのは光につつまれた「ひまわり」に心奪われたからだね。 |
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