天正九年(1581)、信長より能登一国を与えられた前田利家は、直ちに小丸山城を築くが、戦陣に明け暮れる毎日なので、能登の領国支配は兄・前田安勝を城代とし、所口(七尾)町奉行に三輪吉宗・大井久兵衛を当たらせました。
この時、前田一族を支えたのは、鎌倉時代より輪島・穴水地域の大屋庄地頭、室町時代には畠山家臣として能登の住民になじみのあった長連龍(ちょうつらたつ)でありました。
本能寺の変後、能登挽回を目指して石動山城へ入った温井景隆・三宅長盛との合戦に利家は、金沢城主・佐久間盛政と長連龍の援軍を得て、一日で勝利を得ます。
その後、利家と長連龍は血判起請文を交わ友誼(ゆうぎ)を深めています。
天正十一年(1583)、金沢城主となった利家は、安勝を金沢城代にするとともに、小丸山城主にもします。 そして安勝は、長連龍を城代に選びました。
文禄二年(1593)、利家の次男・利政は能登の一部を領したので能登侍従といわれました。 慶長二年(1597)、この利政は、小丸山城をはじめ、羽咋・鹿島一万五千石を分与され城主になりました。
しかし関ヶ原の戦いに参戦しなかったため、京都に移り宗西と称します。 元和元年(1615)、一国一城令により小丸山城は廃城となるのです。
『現地案内を参照』
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