丸亀城
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香川県丸亀市一番町
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瀬戸中央自動車道(瀬戸大橋)を走り、香川県に入り、「坂出IC」から国道11号線を西へ、亀山公園が丸亀城(まるがめ)です。
2005年8月、401城目は初めての四国です。 500城目指して、がんばろうのお城かな。
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昔は円亀と呼ばれた山、丸亀城は現存する天守だよ。
昭和25年、天守閣の解体修理の時、壁の中から「板札」が見つかりました。
その板によって、寛永十九年に山崎氏が築き、京極氏によって完成されたことが分かったらしい。 |
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天正三年(1575)、土佐の長宗我部元親は阿波・伊予に兵を進め、六年には讃岐へと侵入しました。 当時の讃岐は香川氏、香西氏や三好氏、十河氏など各地で争いが続いています。
天正十年(1582)、元親は西讃岐にある香川氏の藤目城や財田城を征服し、東へ兵を進めて聖通寺城の奈良元政を追放、つづいて藤尾城の香西氏を降伏させました。
長宗我部軍は、由佐氏の由佐城や三谷氏の王佐山城を落とし、十河存保の三好隼人が守る十河城を囲みました。
天正十三年(1585)、秀吉の四国征伐により、長宗我部元親は降伏し土佐に退くと、讃岐には秀吉の武将・仙石秀久が聖通寺城に入りました。 しかし翌年の九州征伐の敗戦の責任を問われ、讃岐には尾藤知宜が入るのですが、これも九州出兵の軍律を乱した理由で領地を取り上げられるのです。
天正十五年(1587)、生駒親正が讃岐に入り、初めは引田城のち聖通寺城へ移り、翌年には高松城を築いて、西のおさえとして築いたのが丸亀城です。
慶長五年(1600)、関ケ原の合戦で生駒親正は西軍に付き、子・一正は東軍に付いた為、西軍敗北の後でも領地は安堵されました。
元和元年(1615)、一国一城令により、丸亀城は一旦廃城になるのです。
寛永十七年(1640)、四代・生駒高俊の時、お家騒動のために領地は召し上げとなり、代わって山崎家治が入り、翌年には大改修を始めました。
しかし、山崎氏は三代で後継がなく断絶、明暦四年(1658)には播磨龍野から京極高道が移り、のち多度津藩が成立して明治を迎えるのです。
『参考文献を参照』
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日本には現存する天守は12城、その一つだね。
ここで覚えてみるよ。
弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城・備中松山城・松江城・丸亀城・伊予松山城・宇和島城・高知城
四国は4つだから分かりやすいよね。 |
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丸亀城の石垣はすごい。
上・中・下の三段で50m、8階建てビルぐらいかな。
雨の夕方、前を通った豆腐売りを捕えて、人柱にしたんだよ。
雨の日には豆腐売りの声が聞こえるらしいよ。 |
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上を見ると反り返りそう、「扇の勾配」というのかな。
山崎家治に仕えた羽坂重三郎が石垣を築きました。
家治は「だれもこの石垣に登ることは不可能であろう」と称賛。
すると重三郎は鉄の棒1本で登ってみせた。
重三郎は口封じのため、井戸に入れられ上から石を落とされたそうな、山崎氏の断絶の話につながっているのかな。 |
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