笠居郷(鬼無・香西・下笠居)を本拠に阿野・香川郡に勢力を広げ、讃岐藤原氏一門の棟梁となった香西氏の居城跡です。
詰の城とされる勝賀城に対し、佐料城は里城で、讃稜の館とも呼ばれていました。
承久3年(1221)、香西氏は承久の乱で北条氏に従い軍功をあげ、天正5年(1577)、十八代佳清が藤尾城を築いて移り住むまで、代々この城に拠って、中央政界ともつながりを持ち発展していきました。
勝賀山東麓の微高地にある畑地にL字状の掘跡が残り、それを内掘、付近を城の内と呼びます。
約65m四方の方形館の様子が分かり、周辺には、城の台、馬場の谷、東門、北掘、城の新屋など地名や屋号が伝えられています。
城の内の南東隅に「南海治乱記」、「南海通記」の著者、香西成資の父、植松吉兵衛時蔭の墓碑があります。
『現地案内を参照』
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