戦国時代の飯田郷三城の一つ、下飯田城ともいいます。 当時の城は、土塀囲いの屋敷で、小学校の北側に南門、農協支所の北側に北門がありました。
筑城氏は、長く勝賀城主・香西氏の武将として仕え、永正5年(1508)、初代城主・縫殿助は三谷城攻めに参加しています。
天正10年(1582)、三代目城主・清佐衛門の時、土佐の長宗我部元親の軍と是竹の伊勢神宮の馬場で戦います。
その3年後、秀吉の四国進攻により、香西氏は滅亡します。
天正15年(1587)、讃岐の大名として、赤穂から生駒親正が着任し、清佐衛門は二百石で召し抱えられるのです。
『現地案内を参照』
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