福知山城
京都府福知山市内記

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  社町で175号線を北上へ、兵庫県から京都府に入った所が福知山市です。 そのまま福知山市内に入る手前に、福知山城(ふくちやま)があります。

ここ福知山城は、明智光秀が丹波を平定した後に、近世城郭に改築されたものです。

 
  明治5年廃城後に、福知山城は取り壊され、天守台などのわずかな石垣を残し、城内の建造物は市内の寺院などに移建されました。

昭和61年に、古絵図に描かれた福知山城が、外観上そのままに再建されました。

三層四階の大天守に二層二階の小天守が、続櫓を付けた形になっています。 とてもバランスがとれた、きれいなお城です。
 

 
光秀が丹波を平定するまでは、横山城と呼ばれて、現在の朝暉ケ丘(あさひがおか)にありました。 最初は小笠原長清で、その後は、塩見頼勝が城を築いて立て籠もったのが始まりといわれています。

天正七年、明智光秀に攻められて、頼勝は切腹し、城は明け渡しました。城代として藤木権兵衛と三宅弥平次(明智光満)を入城させ、城郭の改築を行いました。

光秀は「本能寺の変」後、「山崎の合戦」で秀吉に敗れ、この城には秀吉の家臣小野木重勝が入りました。 しかし関ヶ原の合戦で西軍に付いたため、東軍の細川忠興に福知山城は攻め落とされました。
その後、神戸の三田城主・有馬氏が入城し、城下町を作り、今日の福知山城の原型を造りました。

有馬氏は久留米に移り、亀山から岡部氏が入りましたが、わずか三年で稲葉紀通と交代しました。
この紀通は徳川幕府の名門であったにもかかわらず、傲慢さが悪政、謀反(むほん)と周囲で言いふられ、乱心し家臣を殺害したり、領内を通る者を銃撃したりしました。 当然幕府は紀通を改易させましたが、紀通は城中で自害し果ててしまいました。

松平忠房が八代目城主として入り、「松平検地」を仕上げて、領内の安定に力を注ぎました。 名君と惜しまれまがらも島原へ移り、その後栃木氏十三代が城主として統治し、明治を迎えました。 この八代目城主昌綱は、蘭学者として知られ蘭癖大名と呼ばれていました。

『参考文献を参照』

 

  
  お城は不思議なもので、正面よりも後ろからの方が絵になる風景だよ。

人が少ないせいか、逆光のせいか、帰る道だからかな。
 
  石垣の修復工事をしている時で、全ての石に名札が付けられていました。

全部はずしてから、また同じ様に組合わせる作業をするのでしょうね。

写真はほんの一部、すごい作業、やってみたいよね。
 

  

天守入り口にあった「光秀くん」と「ひろこ」さん
 
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