豊臣秀勝邸跡
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京都府京都市上京区弁天町
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戦国時代の豊臣秀勝は昭和にまでつながっていたんだね。
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平安宮跡の石碑めぐりをしていたよ。
同じ石碑に豊臣秀勝邸跡とある、京都は掘り起こせば平安から幕末まで史跡が埋もっているんだよね。 |
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秀吉は関白となり、天皇の伝統的権威をかりての政権構想を持ち、本拠を大坂ではなく京都に定めたのが、内野に建設された城郭、聚楽城です。
聚楽城の周囲には、全国の大名の屋敷が営まれ、安芸広島浅野家旧蔵の「諸国古城之図」の聚楽城図には具体的な人物の名前が記されています。
当地には、秀吉の姉の子(甥)で、養子であった豊臣秀勝(丹波少将)の邸宅があったと云われています。
秀勝の妻は、淀殿の末妹・江で、ふたりは天正13年(1585)10月18日に結婚し、娘・完子(さだこ)を授かり、この一家の住居がこの地にあった可能性があります。
天正20年(1592)、不幸にも秀勝は出兵中の朝鮮で急死、その後、江は徳川秀忠と再婚しますが、完子は同行しませでした。
豊臣家の大事な娘で、秀吉が禁じたと思われます。
秀吉の死後も生母(江)と暮らすこともなく、淀殿の猶子(ゆうし)として、大阪城で養育され、慶長9年(1604)には豊臣家から五摂家の九条忠栄(ただひで:のち関白)に嫁ぎます。
完子は多くの子を産み、その子孫は公家社会の維持に寄与し、近代に入り子孫のひとり九条節子(さだこ)は、嘉仁親王(よしひと:のち大正天皇)に嫁ぎ、裕仁親王(ひろひと:のち昭和天皇)を産みました。
豊臣家の血統は、完子を通じて現在の皇室に及んでいるのです。
『現地案内を参照』
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石碑の横には、平安時代の「平安宮内裏蘭林坊跡」とあるよ。
天皇一代の大イベント大嘗祭などに使用された品物の保管場所で、その後は火災で荒野となりました。
内裏跡なので「内野」とよばれているそうです。
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